第87話 左山深縁・弐

文字数 4,080文字

 平伏する紘子の前で、すうっと襖の開く音がした。
 やがて上座に座った老人は、
「面を上げよ」
 とゆったりした口調で告げる。
 恐る恐る頭を上げ背筋を伸ばす紘子を、老人は感慨深げに、そして痛ましげに見つめた。
「佐野武貫(たけつら)だ。八束幹子殿であるな? 遠路はるばる、かたじけない」
 紘子は再び頭を下げた。
「……八束秀郷(ひでさと)が娘、幹子にございます」

 ――話は少し遡る。
 江戸の左山(あてらやま)藩邸に立ち寄る旨とその理由を重実に聞いた翌日、紘子たちは重実の先導で左山藩邸に赴いた。
 門番と共に待ち構えていた親房が一行を見つけるなり駆け寄る。
「全く、来るなら来るでもう少し早く文をだな――」
「何分こちらも急だったものでご勘弁を。よもや旅の道中でどこぞの用人を看取るとは夢にも思わんでしょうに」
 親房の言葉を半ば遮るようにして、重実は冗談交じりに答えながら枇杷丸から滑り下りた。
 重実はさりげなく紘子の体を下から持ち上げるようにしながら彼女が馬から下りるのを手助けし、紘子が無事に着地すると改めて親房に挨拶する。
「田邉殿、こちらが紘子……ああ、八束幹子殿で、後ろに控えるのが彼女の乳母のイネです」
「……八束幹子です。朝永のお白洲では大変お世話になったと……誠にありがとうございました。ご挨拶が遅れました無礼、何とぞご容赦を」
 重実に紹介された紘子は親房に丁寧に頭を下げた。
(成程、これは良く躾けられて育った姫君だ。重実が惚れるのも分かる)
 親房は紘子の立ち居振る舞いに感心しつつ、
「田邉親房と申す。無礼などお気になさらず。ここまで快癒され何より」
 と笑顔を見せると、
「佐野の父も心待ちにしている。さあ」
 と早速一行を藩邸の中に案内する。

 対面予定の座敷までの廊下を歩きながら、親房が口を開いた。
「幹子殿にはさぞ酷なことかと思っていたが……父の願いを聞き届け下さり、感謝する」
「いいえ、感謝など……恐れ多いことにございます。瀬見守様の御加減は如何でございますか」
 紘子が尋ねると、親房は寂しげな笑みを見せる。
「次の桜を見られるかどうかという医者の言葉はやはり間違ってはおらぬようでな……いよいよ誰ぞの手を借りなければ立ち歩き出来ぬようになってきた。そのせいか、ここのところすっかり気落ちしていたのだが、幹子殿が来られると聞いた途端目に生気が戻った。この機を逃せば二度と幹子殿に詫びることが叶わぬと考えているのだろう。だが……」
 親房は笑みを消し、紘子に気遣わしげな視線を向けた。
「……何故、幹子殿は父に目通りしてくれようと?」
 紘子は口元を僅かに緩める。
「瀬見守様に咎はない、それでも瀬見守様は私をお気遣い下さる、ならば此方も精一杯の謝意を示さねばと……ただそれ故にございます」

 一方、紘子の答えを横で黙って聞く重実は、顔にこそ出さないもののその心中は複雑だ。
 武貫は、紘子にとって間接的とはいえ親の仇に匹敵し、彼女自身もまた武貫のせいで生き地獄を味わわされたと言っても過言ではない。
 そのような因縁のある相手に、いくら詫びたいと言われても普通なら会う気にはなれないものではなかろうか。
(確かに「事情がある」とは言った。瀬見守様にもう残された時間が少ないことを告げることで、同情心から謝罪を聞く気になってくれればという打算も……なかったと言えば嘘だ。だが、それでも拒むだろうと、俺はそれで構わないと思っていたんだが……)
 恨みこそすれ、謝意など……。
(だが、よくよく考えればこいつは「今更両親が生き返るわけでもない」と言ってあの吉住にさえ恨み言を言わなかった奴だ、瀬見守様に対してもそうした気持ちにもなるやもしれんが……どうにもあの顔も声色も硬い気がする。相当に無理をしているんじゃないか?)
「田邉殿」
 重実は親房に声を掛けた。
「ご無礼を承知の上でお頼み申したいのですが、ひろが瀬見守様に目通りする際、俺も同席させてもらえませんか? 立ち座りに支える手がないと少々危ういので」
 ……などというのは建前で、ただただ紘子が心配なだけなのだが、親房は意外にもすんなりと
「ああ、構わぬ。紘子殿もその方が安心だろう」
 と重実の要求を受け入れた。

 時は今に戻る――。
 座敷の上座には用人の手を借りながら座した武貫が、離れて対面の下座には紘子が、そして座敷の隅には重実と親房が控えている。
 イネと三木助、小平次は座敷の次の間で待っていた。

「幹子殿よ、これへ」
 武貫は力無い仕草ながらも紘子を傍に呼ぶ。
「近頃は目も耳も衰えた。手間を掛けるが許せ」
「滅相もございません」
 立ち上がろうとする紘子に、
「ご無礼仕ります」
 とすかさず重実が進み寄り手を貸し、二人は寄り添うようにして前に出て武貫の前に再び正座した。
 重実はさりげなく下がろうとしたが、
「良い、清平殿もこれへ」
 と武貫は引き留める。
「親房に聞いておる。清平殿が幹子殿の濡れ衣を晴らしたと。そもそもは儂の犯した過ちが発端、清平殿にはその尻拭いをさせることになってしまったな……かたじけない。何より――」
 重実に謝意を述べた武貫は、紘子に向き直ると用人に支えられるようにして頭を下げた。
「――幹子殿、儂が浅はかだった。八束殿には、其方に男児が二人生まれなければ後々養子を都合すると約束し、八束の家も存続させる手筈だったのだが、朝永の家老があそこまでの愚物だったとは……。朝永鬼頭の内情も人となりも細かく検めず縁組みを推し進めたこと、今はただただ恥じ入るばかり。儂の浅はかさが八束殿をあのような形で死なせ、幹子殿に数多の癒えぬ傷を負わせた。どうか、この通りだ……」
 頭を下げたまま肩を震わせる武貫に、紘子は
「瀬見守様、どうか頭をお上げ下さりませっ」
 と半ば縋るような口調で請う。
 武貫はふらふらと上体を起こし、涙目に紘子を見つめた。
 すると、今度は紘子の方が軽く頭を下げる。
「恐れながら、申し上げます。これまでのことは、何より尊い『今』に繋がるものであると、『今』を生きるためには逃れられぬ試練だったと、私は思うております。故に、瀬見守様には何の咎もございませぬ。どうか、心穏やかに日々をお過ごし下さりませ」
「儂を……恨んでおらぬと申すか」
 紘子は下げていた頭を上げ、ふと重実を一瞥した。
「私に朝永との縁が生じなければ、私は後々峰澤に落ち延びることも、重実様に巡り逢うこともございませんでした。私には、こうして生きる『今』が何より尊いのでございます。瀬見守様を恨む道理などございませぬ」
「何と、何と……」
 武貫は唇を噛んで涙を堪える。
 暫しそうした後、彼は深呼吸して深く頷くと、
「寛大で実に美しき心よ。幹子殿、この先何やら難しいことあらば、左山佐野家がいつでも後ろ盾となろう。幹子殿が望むならば、八束家の再興にも力を尽くそう」
 と幹子に告げた。
(お家再興……だと?)
 武貫の言葉に愕然としたのは紘子ではなく重実の方だ。
(ひろにはもう八束幹子として生きていくつもりはないだろうと俺は思っていたが……考えてみれば、俺が勝手にそう思っていただけで、その辺りのことを何一つひろに確認してないじゃないか。確かに八束の家が再興すれば清平家との家格差は埋められる。だが、再興するということは、つまり……)
 重実が危惧するのも当然だ。
 八束家が再興するには一人娘の紘子に婿が必要となる。
 要するに、重実と紘子が結ばれることはなくなる、ということだ。
(ひろは……どう思ってるんだ?)

 重実が固唾を呑んで紘子の答えを待つ時間は、思いの外短かった。
「お心遣い、ありがたき幸せにございます。しかしながら、私は八束の家を再興するつもりはございません」
「良いのか? 八束殿の名誉も回復され、幹子殿もかつてのような暮らしが出来ように」
 武貫はそう言い寄るが、紘子は柔らかく笑んで返す。
「お取り潰しに遭ってからもう二年が過ぎております。その間に、世の中は変わりました。八束の家がなくとも、ご公儀は安泰にこの泰平の世を保たれております。八束との縁を頼みにしていた武家も公家も多く離れたことでしょう。今更八束家が再興しても、先代が築き守ってきた縁を受け継いでおらぬ私には荷が重きことにございます」
「では、この先如何に暮らしていくと?」
 武貫の問いに、紘子は背筋を伸ばし凛とした佇まいを見せた。
「叶うならば、清平重実様のお傍に居とうございます」

 数秒の間呆然とした武貫だったが、重実と紘子を交互に見た後、目尻に深い皺を刻む。
「左様か、左様か。では、先程申した『後ろ盾』、其方らの望みを叶えんがため頼みにすると良い。それで、八束殿へのせめてもの供養になるならば助力は惜しまん。何かあらばそこの親房に遠慮なく申せ。たとえ儂の命が尽きようとも、儂の息子たちが力になろうぞ」

 武貫との対面を終え、紘子と重実は親房の案内で藩邸を出る。
「重実、幹子殿、今日はまこと有り難かった。父の心もどれ程救われたことか。父が言うていたように、いつでも私を頼ってくれ」
 親房はそう言いながら一行を送り出すと、姿が見えなくなるまで名残惜しげに彼らを見送った。
 道の角を何度か曲がり街道に出たところで三木助が今夜の宿へと先導を始めたが、馬上の重実はずっと思い詰めたような顔をしたままろくに言葉を発しない。
(ひろの心は、もうあそこまで決まってるんだな……)
 互いの気持ちも、この先のことも、分かりきっていたことに違いない。
 他の者と歩む人生など、重実も紘子も考えてもいない筈だ。
 二人ともこれまでそれをうやむやにしてきていたが、紘子は重実の目の前で武貫に対し言葉にして示した。
(失ったものの数々、これからへの不安……どう考えたってひろの方が俺なんかより余程多くの負担を抱えている。それでもこいつははっきりと言った。俺の傍にいたいと言った。だのに俺がいつまでも黙っていていいわけがないだろう。今度は俺が俺の覚悟と気持ちを示す時だ)
 重実は前に座る紘子の胴に回した腕に力を込め、ぐっと引き寄せると、彼女の耳元で囁く。
「ひろ、今晩話がある」
 
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