第88話 永遠に誓う・前

文字数 3,406文字

「ひろ、今晩話がある」

(あのように予め仰るなど、一体何事だろうか……しかも、何やら大層改まった声音だった……)
 馬上で囁かれた重実の一言が耳から離れず、紘子は宿に着き夕餉を囲んでも心ここにあらずだ。
(瀬見守様に何かいけないことを申してしまった? 八束の再興をお断りしたのはやはり無礼だったのだろうか? それとも、重実様のお傍に居たいなどと先走ったことを口にしてしまったのが拙かったか……考えてみればそうだ、あれでは重実様の面目が立たないではないか。後程お詫びしなくては……)
 紘子があれやこれやと思い悩んでいる最中、重実は先の予定について皆に告げる。
「左山の用件は済んだ。あとは一路峰澤を目指すのみだ。ここがもう少し峰澤寄りであれば明日の昼過ぎには着くところなんだが、生憎江戸の中心に近い故……まぁ、夕刻辺りになるか。三木助、東町に入ったら一足先に城に入り従重と忠三郎に帰参を報告しろ。小平次は俺の傍に控えとけ。イネとひろは……色々案ずるところもあるだろうがそう気負うな。城も小さければ人も少ない、家老の忠三郎もそう難しい奴じゃない……時々面倒くさいが。そこの二人を見ていれば分かるだろう」
 冗談交じりの重実の言葉にイネは声を立てて笑い頷くが……。
「ひろ?」
「はっ、はい!」
 紘子は箸も止まりがちで重実の話もろくに耳に入っていなかったらしく、名を呼ばれて弾かれたように顔を上げた。
「左山の藩邸じゃ随分気を張っていたようだし……疲れたよな。話はまた今度……」
「いいえっ」
 紘子は慌てて重実の申し出を遮る。
(あのように私に仰ったのだ、それを曲げさせるなど申し訳ない)
「何も大事ございません、譜代の当主であらせられた方に目通りするなど初めてでしたのでそれで少々強張っていただけで、疲れるようなことは何も」
(こいつ……何をそんなに急いているんだ? 俺が話そうとしていることが何か勘付いてのことか? まぁ、勘付いたなら勘付いたで一向に構わんが)
 小さく首を傾げながらも、重実は苦笑して
「分かった分かった。では、この後落ち着いたらひろは少々俺に顔を貸してくれ。他の皆は明日に備えてよく休むよう」
 と言うと、何事もなかったかのように夕餉の続きに戻った。

 夕餉の後、身綺麗にした紘子はあてがわれた部屋の中でイネと向かい合いひそひそと言葉を交わす。
「イネ、私は左山のお屋敷で何か粗相をしただろうか?」
「はて?」
 イネは何のことやらと首を捻った。
「私は次の間に控えて姫様のお声を聞いておりましたが……特段よろしくないことはございませんでしたよ?」
「そうか……では、重実様は一体私に何を仰ろうとしているのだろう……」
 真剣に悩む紘子にイネは……呆れる。
(ああ……こればかりは八束の旦那様をお恨み申し上げますぞ……旦那様があまりに姫様を可愛がってお手元から離されなかったばっかりに、姫様は殿方との駆け引きを知らずにお育ちになってしまった……)
 加えて、その甘い駆け引きを覚え始める前に紘子は鬼頭家に嫁がされた。
(ここは、このイネがひとつ動かねばなりますまい!)
 イネはいそいそと何かを風呂敷に包むと、それを紘子に押し付ける。
「ここで私と問答をしていても埒が明きませぬよ。姫様、とりあえずこれをお持ちになって早うお殿様の所へ」
「イネ、この包みは何だ?」
「それより疾く、疾くでございます!」
 イネは訝しむ紘子を半ば強引に部屋から追い出した。

 イネが見せた突然の不審な行動に首を傾げつつも、紘子はすぐ隣にある重実の部屋の前で座り、中にいる彼に声を掛けようとする。
 すると、声を発する前に突然襖が開き、紘子は
「はっ!?」
 と変な悲鳴を上げてしまった。
「な、何だひろ……こんな所で如何した?」
 襖を開けた重実も思わず最初の一音が裏返る。
「いいえっ、偶々お声を掛けようと来たところで……」
「俺もちょうどお前を迎えに行こうかと……全く、とんだ拍子だな」
「ふふっ……はい」
 互いに同じような動きをしていたことに、二人は顔を見合わせ笑い合った。
「そんな板張りの床に座るな。ほら、入れ」
 重実は紘子に手を貸し立たせると、部屋に招き入れる。
 座布団を差し出し紘子を座らせようとした重実は、ふと彼女が抱えている風呂敷包みに気付いた。
「ひろ、それは何だ?」
「それが、私にも……。イネが、これを持って早く重実様の所へ行くようにと持たせたのですが……」
「気になるな。解いてみたらどうだ?」
 重実に促され、紘子は風呂敷包みの結びを解く。
 そして……出てきた物を見た二人は絶句し、重実は赤面しながら紘子から露骨に目を逸らした。
(おなごにこんな物を持たせて男の部屋に行かせる奴があるかっ!! ……鴨に葱を背負わせるようなもんだろうが!)
 紘子ではなく第三者からの「煽り」がここまで狩猟者の欲望を暴れさせるものとはつゆ知らず、重実は心の内でイネを罵倒することで懸命に己の理性を保とうとする。
「あ、案ずるな……それはしまっていいぞ。枕ならある……」
(……待て! これでは俺が周到に紘子の分の枕を用意して同衾を待っていたようじゃないか!)
「あ、いやっ、あるのは俺の分だけだ!」
(いや待て! これではまるでお前の分はないと言って紘子をさっさと部屋に追い返そうとしているようじゃないか!)
「いや、そうではなく……」
(……駄目だ、もう何が何やら分からん)
 理性を守ろうとして理性を失っていく矛盾に重実の思考は完全に止まってしまった。
(私に枕など持たせて……こればかりは、後できつくイネに言わなくては)
 風呂敷包みの中から出てきた枕に、さすがの紘子も苦々しい顔をする。
「イネがとんだ無礼を。申し訳ございません」
「いや……とりあえず、それは隅に置いとくか」
「は、はい」
 紘子は勧められるまま座ると、枕が互いの視界に入らぬよう自身の背後に隠すように置いた。
 重実の方も、枕が見えなくなったことでひと心地ついたのか、はぁと長い息を吐く。
 しかし、騒動が収まると今度は妙な緊張感が彼の心を支配した。
(ただ一言伝えるだけだろう、何を今更……)
 そう己に言い聞かせてみるが、何かが違う。
(ああ、そうか。俺は俺の情だけはこいつに隠さず伝えてきたが、俺の求める「形」を伝えたことはなかったな……。それっぽいことは何度か口にしたが、いつも遠回しだった。それ故か)
 そう己に答えを見出している重実を、重実の心中など知らぬ紘子は些か気弱な表情で見つめていた。
 自分の方から話を切り出して非礼を詫びたいが、「話がある」と呼び出した重実が先に口を開くのを待つべきと己を戒めて黙っている。
 そんな紘子に気付き、重実は
「ああ、すまんな、俺の方から呼びつけておいて話もせなんだとは」
 と早口に告げ、ようやく話を切り出した。
「その、左山の藩邸でお前が言ったことだが――」
(ああ、やはりそのことだった……っ)
 紘子は反射的に頭を下げる。
「ご無礼いたしました! 重実様のお心も考えず、瀬見守様に御家再興を断った挙げ句勝手な望みを告げ……」
「いや、いや! 違う、お前が謝ることは何もない!」
(よもや、こいつはそんなことを気に病んで夕餉もままならんかったのか?)
 紘子の必死な謝罪ぶりに重実は慌てて返すと同時に、これまで彼女がどこか気疲れした様子だった理由にようやく思い当たった。
(全く、どうにもこいつは些末なことを気に病む性分だな……俺にはそこがまた可愛らしく思えるが……ああ違う! 惚けている場合か!)
「瀬見守様は豪胆で白黒はっきりしたものを好むお方だ。腹を立てるどころか、お前の物言いにむしろ顔を綻ばせていただろう? それに、俺もお前の言葉に悪い気など一切起こしてない。今宵お前に話があると言ったのは……お前の真っ直ぐな気持ちに俺も応えねばならぬと、いや……俺が先に『形』を示さねばならぬと、そう思い至ったからだ」
「『形』……ですか?」
 小さく首を傾げた紘子に、重実はすっと寄る。
 今にも互いの膝が触れそうなまでに距離を詰めた重実は、ゆっくりと紘子の手を取り、彼女を見つめた。
(何と、真っ直ぐに射抜くような目をなさるのだろう……)
 視線まで縫い止められたように、紘子はただ眼前の彼を見つめ返すしか出来ない。
 己が尻込みするも、相手を逃がすも許さない、強き意志を秘めた両の瞳に紘子を映したまま重実は口を開く。

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