第20話 滴る血

文字数 2,249文字

 この日、峰澤藩藩主・清平重実は江戸城からの呼び出しで早朝から江戸に出掛けていた。
(それにしても、江戸市中はここよりも浪人が溢れかえっていたな……)
 帰りの籠の中で、重実は「将軍様のお膝元」の様子を思い出し鬱々と息を吐く。

 重実ら江戸近隣の藩主が呼ばれたのは、昨今江戸で囁かれる不穏な噂への「注意喚起」が目的だった。
 重実の脳裏に、今度は旧知の仲である田邉親房と江戸城内で交わした会話が甦る。

「『交代』を終えてようやく藩に戻ったというのにまた江戸に呼び立ててすまないな」
 近隣諸藩の藩主らとの会合を終えた親房は、城内の一室で重実と二人きりとなり、茶菓子を出しながら詫びを入れた。
「何を仰りますか。田邉殿のお呼び立てとあれば、何を差し置いてもこの重実は参りますよ……まぁ、幸い峰澤は江戸からそう遠くないですし」
「おい、遠方だったら断るつもりか。全くお前は……」
 親房は重実と冗談を言い合った後、ふと真顔になる。
「重実、江戸市中を見てどう思った?」
「……田邉殿ですから本音を申しますが、荒れていますね」
「ああ、お前の言う通りだ。近頃の浪人の増え具合はどうにも……。しかも、その浪人共が結託して一旗揚げるやも等という噂まで立っている」
 親房の言葉に、重実は眉根を寄せた。
「この泰平のご時世に、ですか?」
「泰平のご時世だからこそ、だ。私も含め、幕臣には戦を知らぬ者が増え始めた。こんな時に腕の立つ浪人が徒党を組んで決起したとして、果たして無事に鎮圧出来るかどうか……」
 重実は不安げに顔をしかめる親房を気遣う。
「江戸城は鉄壁の守りを誇る城、万に一つもございますまい」
「江戸城は、な。だが、市中はそうはいかん。大きな乱でも起これば、どれ程の民が犠牲になるか」
 親房は重実に向き直った。
「会合の場でも申したが、それとなく浪人らの動きに目を配り、きな臭いものがあればすぐに知らせてくれ」

(そもそも、浪人が増えたのはご公儀による藩の取り潰しが多過ぎるからだろうに……)
 駕籠の中で重実は嘆息した。
(と言っても、田邉殿は老中付き、老中の小間使いでしかない田邉殿は政を動かせるお立場ではないからな……進言しようにも出来ず、さぞ口惜しい事だろう)
 重実は親房を思いやりながらふと襟元に手を差し込む。
 取り出したのは、何故か女物の柘植櫛だった。
 細かな香木を控え目に埋め込むという凝った細工の施されたそれを見て、重実はふっと顔を綻ばせる。
(物の豊富さはさすが江戸だったな。小間物屋だけで何軒も並んでいた。城に帰ったら、さっさと着替えて届けに行くか)
 重実は櫛を送る相手の顔を思い浮かべ小さく笑い声を漏らしたが、ふと駕籠の外の喧騒が気に留まった。
「忠三郎、ここはどの辺りだ?やけに騒がしいようだが」
 重実は駕籠の小窓を開ける。
 駕籠の傍を歩く忠三郎が小走りに駆け寄ってきた。
「城下の長屋街にございます。何やら、人だかりが出来ておりますが……」
 重実は耳をすます。
「この辺りにゃ医者なんかいないってのに」
「駄目だ、こりゃ死んじまう」
「早く血を止めんと」
(刃傷沙汰か?)
 耳が拾った言葉に重実の胸がざわついた。
「駕籠を止めろ」
 重実は駕籠を止めさせ、外に出る。
 目にした景色は、彼にとっては勝手知ったる場所だった。
(東町じゃないか……)
 心臓が嫌な音を立てる。
(何だ?妙な胸騒ぎがする……)
 立ち止まったまま人だかりを凝視する重実の横を、蕎麦屋「あづま」の千代が血相を変えて走り抜けた。
(まさか……)
 ぞわりと肌が粟立つ感覚を覚えながら、重実は千代を目で追う。
 千代は人垣を掻き分けて入っていった後、金切り声を上げる。
「お紘ちゃん!」

 気付けば重実は駆け出していた。
「道を空けてくれ!」
 突如発せられた声と品の良さげな風体に、町人たちはさっと退く。
 そして重実が目にしたのは……血塗れで倒れている紘子の姿だった。
「殿……」
 後を追ってきた忠三郎が重実の意を問う。
「今日は藩医が城に詰める日だったな?」
 主の一言で忠三郎は察した。
 彼は駕籠と共に控えて待つ家臣たちの元に駆け戻ると、馬引きから馬を領し、重実の傍に連れてくる。
 その間、重実は懐から手拭いを出し紘子の傷口に押し当て血を止めようとしたが、手拭いはみるみる深紅に染まっていった。
(この傷は斬られて出来るものではない。刃物が刺さって出来た傷だ。くそっ、刃物を抜かれなければここまでにはならなかったろうに……!)
「殿、お急ぎ下さい」
 忠三郎が連れてきた馬に跨がり、彼の手を借りながら重実は紘子を馬上に引き上げる。
 だらりと落ちた紘子の腕を、止まらぬ上胸の血が伝い地面に滴った。
 重実はその腕をも素早く持ち上げ、紘子を抱えるようにして馬を走らせる。 
 馬は城下に似合わぬ速さで城への道を駆け上った。
「今のは、誰だい?」
「きっと偉いお侍さんだろうけどねぇ……」
 長屋住まいの町人が、彼らにとって雲上人であろう藩主の顔を知らなくてもおかしくはない。
「いつも店に来る浪人さんに似てるような気もしたけど……まさかね、あんな立派な格好、浪人さんに出来るわけないよねぇ……」
 千代も呆然としたまま重実を見送っている。

 羽織の袖に鮮血の染み込む生温かい感触を覚えながら、重実は無意識のうちに何度も馬上で呟いた。
「死ぬな……ひろ」
 と。
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