第18話 流れる川の一滴・弐

文字数 3,537文字

 それから過ぎること九日。
 従重に言い渡された期日が明日と迫るこの日、紘子はあづまにいた。
「お紘ちゃん、何か良い事でもあったかい?」
 客が去り、空になったどんぶりを載せた盆を下げる紘子に、女将の千代が声を掛ける。
 千代には、ここ数日紘子がどこか上機嫌に見えていた。
 紘子はどんぶりを洗いながら仄かな苦笑を滲ませる。
「そう見えますか?」
「ああ、見える見える。もしかして、由作さんとこのたきの件、決まりそうなのかい?」
 長屋の出来事というものは、すぐに噂となり近隣に広まるものだ。
 たきに養子縁組の話が来ている事も、千代は常連の口から聞いて知っていた。
「由作さんは喜んで下さりました。お母上ののぶさんは、だいぶ寂しいようでしたが……それでも、たきが幸せになれるならと許して下さって」
「寂しいのはお紘ちゃんもじゃないのかい?特別目を掛けてた子なんだろう?」
 どんぶりを布で拭きながら紘子は答える。
「私の寂しさなんて、のぶさんに比べたら些末なものです」
 ふと、紘子の脳裏に自分の母親の姿が浮かんだ。
 俯いた母が涙を零していたのを、紘子は忘れる事が出来ずにいる。
(あの時、母上はどのようなお気持ちだったのだろうか。ただ私が嫁ぐ事が寂しかったのか、それとも……私の嫁ぎ先があのお家でなかったら、母上はお泣きにならなかっただろうか……?)
 その答えを知る術は……紘子にはもうない。

「万に一つ、貴女の尊厳が冒されるような事になろうとも、貴女の才と培った知恵は何人にも奪われはしないのです。どうか、どうかそれだけは忘れないで……」

 あの日、愛おしく娘の名を呼びながら、紘子の母は彼女にそう諭した。
 あの時は、それが今生の別れになろう事など、紘子には想像も出来なかった……。

「ただねぇ……由作さんなんだけど、最近妙な噂があってね……」
 千代が僅かに眉を顰めてそう囁くが、紘子の心はいまだ過去に遡ったままで彼女の声など耳に入らない。
 千代は構わず話の続きをしようとしたが、そこに
「おばちゃん、海老天蕎麦ちょうだい」
 と重之介が入ってきた。
 重之介の声に、紘子ははっと我に返る。
 無意識のうちにその目は重之介の姿を捜し、視界に捉えると微笑みと共にお辞儀をした。
「……いらっしゃいませ。先日はご馳走様でした」
「あ、ああ……。向こうに行く仕事が舞い込んだら、また誘ってやるよ」
 歩み寄って頭を下げた紘子に、最初の返事こそ歯切れが悪かったものの重之介は快活に言葉を返す。
(日を置いて見たせいか、こいつの笑顔には妙に心が乱される。危うく言葉を忘れるところだった)

 そんな重之介の葛藤などつゆ知らず、紘子は「また」への期待にほんのりと頬を染めながら頷いた。
(また、お誘い頂けたら嬉しい……)
「……ありがとうございます」
 紘子の態度に千代は目を見張りながら調理場に駆け込むと、蕎麦を打つ夫の肩を勢いよく叩く。
「ちょっと!あんた今の見たかい!?あのお紘ちゃんが、あんなに可愛らしく笑って、照れちゃったりして……!」
「お紘だって年頃だ、可笑しい事じゃねぇだろ」
 淡々と蕎麦を打つ夫に、千代は悩ましげに首を振った。
「何を言ってんのさ……あんなその日暮らしの浪人さんと恋仲になんてなっちゃ、その先苦労するのが目に見えてるじゃないか。あの子はどうも男運がなさそうだからねぇ、あたしゃ心配でしょうがないよ」
「お前の娘じゃあるめぇし……」
 旦那は妻に呆れながら、海老天を揚げ始める。
「俺は、あのお侍はそう悪くねぇと見るがな。細いようで、首回りの筋の張りを見るとそこそこの胆力もありそうだ。それなりに腕も立つんじゃねぇのか?」
「この泰平のご時世に、いくら腕が立ったってねぇ……」

 程なくして、さっくりと揚がった海老を載せた蕎麦が出された。
 千代はそれを紘子に渡すと、紘子が足を踏み出す直前に耳打ちする。
「いいかい?あのお侍さんにあまり深入りしちゃ駄目だよ。お紘ちゃんには、ちゃんと稼ぎと身分のある人の方が合ってるんだから」
「は、はぁ……」
 紘子は曖昧な返事だけを残し、重之介の座る畳に盆を運んだ。

「お待たせしました」
 紘子が盆を置くや否や、重之介は紘子を引き止める。
「ひろ、ほら」
 重之介はまたも海老天を紘子の口元に運んだ。
「いえ、あの……っ」
 思わず顔をのけぞらせる紘子をせき立てるのは重之介だ。
「いいから早く。蕎麦のつゆが垂れる」
 紘子は結局言われるがまま海老天をひと口齧る。
 さっくりとしていながら、所々につゆが染みた海老天の風味は格別だ。
「美味しい……」
 思わず口角を上げた紘子の口から本音が零れた。
 すると、重之介も微笑を浮かべる。
「そう、その顔。あの時も本当にいい顔だと思ったんだよ」
「……っ」
 紘子は気恥ずかしくなり俯いた。
 だが、紘子に不機嫌な様子はない。
(あの時は露骨に表情を曇らせていたが、今日はただ照れているだけみたいだな……)
「何だか機嫌が良さそうだな。何かあったのか?」
「はい、実は……」
 紘子はたきの事を重之介に話す。

「……そうか、武家に入るのか。上手く決まれば、話を持ってきたその旗本の次男とやらも喜ぶだろうな」
 重之介は素直にたきの養子縁組を喜びつつも、その面にはほろ苦いものが浮かんでいた。
「だがな、ひろ。これだけは覚えておいてほしい……」
 重之介は真っ直ぐに紘子を見つめる。
「流れる川の一滴を掬わんとする者は、時としてその激流に呑まれ身を滅ぼす。全ての子の人世をたきのように変えてやれるとは思っちゃいけない。たきだって、縁組みが上手くいくかどうかはまだ分からない。万一縁組みが成らなかったとしたら、その時はそれ以上踏み込むな。物事には、深く関わるべきものとそうしてはならないものがある。深く関わってはならないものに手を出せば、濁流に攫われて身を滅ぼす事になる」
「……」
(重之介様……?)
 重之介の双眸は、まるで別人かと思う程に真剣だった。
 有無を言わせぬ不思議な威圧感さえ漂うその視線に、紘子はただ
「はい……」
 としか返事が出来ない。
(きっと、私を気遣ってこのように仰っているのだろうけれど……ただの浪人さんが、このようなお考えをお持ちになるだろうか……?それに、こんな重之介様は、初めて見た……)
 重之介が浪人ではないとなれば、一体何者か……。
 ふとそんな疑問が浮かんだ途端、紘子はいつぞやの晩に木戸屋の松の間で見た若侍を思い出す。
(似ている……あの時のお武家様に)
 そう思った瞬間、底知れぬ恐怖を感じた。
(この方は、もしかすると私が関わってはいけないお方なのかもしれない……)
(拙いな……つい言い過ぎた)
 重之介は重之介で、自分を見る紘子の目が怯えに揺れ始めた事に気付き内心動揺する。
(今こいつに言った事に偽りはない。だが……)
 重之介の中では、「姿なき旗本の次男」が影を作り始めていた。
 紘子の心をこうも浮き立たせるその男は、一体何者なのか。
 自分以外に、紘子の笑顔を炙り出せる男がいようとは……。
(嫉妬か……全く、みっともない)
 数秒目を閉じ気を取り直すと、重之介はいつもの調子で苦笑して見せる。
「すまない、脅すつもりはなかったんだ。ただ、お前は見ていない所で無茶をするたちだから、つい、な」
 重之介の眼光が和らいだ事に安堵を覚え、紘子もようやく表情を和らげた。
(やはり、気のせいだ……)
「いいえ……お言葉、肝に銘じておきます」
「あ、そうだ……ひろ、明日の晩はまた木戸屋か?」
 思い出したように問う重之介に、紘子は気まずそうに返す。
「木戸屋さんには、お暇を頂きました……」
「暇って……」
 重之介は理由を訊ねようとしたが、やめた。
(あの女将、あまりひろを良く思ってなさそうだったからな……大方、ひろが休んだのを口実に首を切ったってところだろう)
「そうか。それなら長屋にいるな。明日、江戸まで用事を頼まれて行ってくるんだが、帰りに何か土産を買って届けるよ。大した稼ぎがないからそんな大層な物は買えないがな」
 紘子はあたふたと手を振る。
「そんな、お勤めに行かれるのに私に土産などっ」
「だから、大した物は買わないから気に病むな。ああ……それとも、土産を届けるのにかこつけて俺がお前を……なんて心配してるのか?」
 紘子の顔がぶわっと紅くなった。
 それを見て重之介は愉快そうに笑う。
「はははっ!冗談だ。すまない、調子に乗り過ぎた。なに、玄関先で渡すだけだ、心配するな。そもそも、すぐに噂の広まる長屋でそんな大それた事なんざ出来ないさ」

 勘定を払ってあづまを出た重之介の足取りは心なしか軽かった。
 だが、翌日予想だにしない形で紘子と対面する事になろうとは、この時の重之介には知る由もなかった……。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み