第70話 一途過ぎるお殿様・弐

文字数 2,184文字

 話はひと月程前、紘子が昏睡している間に重実が佐原屋を訪れたあの日に遡る。

「お侍様、此方など如何でしょう?」
 店主が見せた鼈甲の櫛は、この時佐原屋の商品の中で最も高価な櫛だった。
「鼈甲か……」
「おや、お気に召しませんでしたか?」
 商人としてその眼力を重実に褒められた店主は、自慢の仕入れ品であった鼈甲の櫛を気前良く披露したつもりだったが、重実の眉間には皺が刻まれている。
(はて、このお侍様は醸す気配からしてそれなりの懐をお持ちと見えたが……)
 決して高価な装いはしていないのだが、生まれついての「お殿様」の雰囲気が店主のセンサーに引っ掛かったのだろう。
 店主は重実を「親房のお付き」であると信じつつも、良い所の出であろうと感じていた。
 鼈甲の櫛の一つや二つ、容易く買えるくらいには、と。
 だが、重実には鼈甲の櫛に食い付く気配がない。
(この櫛がお気に召さないとは、このお侍様は一体如何な櫛をご所望なのであろうか?)
 金持ちの見栄っ張りか、それとも見かけ倒しの貧乏人か。
 物の良し悪しが分からぬ見栄っ張りなら適当な品を売りつけよう、貧乏人なら体良く安物を掴ませてさっさとお引き取り願おう。
 商人には商人の意地とプライドがある。
 店主は重実の答えを待った。
「いや、この鼈甲は随分と良い品だ。江戸近隣でもそう易々と買えはしまい」
(とりあえず、お目は確かなようだ)
 店主は緩く口角を上げるが、その後の重実の呟きでその笑みは消える。
「だが、これであいつが喜ぶとは思えない」
「はい?」
(このお侍様は、一体どなたに櫛を差し上げるおつもりなのか。斯様な鼈甲の櫛となれば、吉原の花魁でも目を輝かせように)
 動揺を押し隠す店主に、重実は
「やはり柘植にしよう。柘植は使い込めば使い込むほど味わい深い色になる。店主、柘植の櫛で、凝った彫りを施したものはないか?」
 と尋ねた。
「柘植でよろしいのですか? 他に珊瑚や象牙もございますが……」
「ああ、柘植でいい」
(鼈甲より柘植とは……目の肥えた方とお見受けしたが、貧乏人だったか……)
 店主は内心落胆しながらも柘植櫛の並ぶ盆を運ぶ。

 ずらりと並んだ柘植櫛を前に、重実は唸った。
 鼈甲より安価とはいえ、店主が選りすぐった柘植櫛の数々はどれも精巧で美しい。
 店主としても確かな目で買い付けた自信の品揃えだった。
「こちらの象嵌細工とそちらの螺鈿は当方一押しの逸品にございます」
「……見事だな」
 重実は目を皿のようにして二つの櫛を見比べる。
 象嵌細工の方は梅の花を、螺鈿の方は月夜をそれぞれ表現していた。
「梅か月夜か……」
 それから暫く黙り込んだ重実に、店主はたまらず問い掛ける。
「恐れながら、お侍様はどなたに差し上げる櫛をご所望でございますか?」
 重実はやや当惑した面持ちで、
「……嫁にしたい女子がいてな」
 とだけ答えた。
「梅であれば、先々の幸運や豊かさを表す他、誠実である事を示すと言われております。長きにわたる夫婦の暮らしを思えば、寒さに耐えて美しい花を咲かせる逞しい梅の花は喜ばれましょう。月夜といえば竹取物語、月と言えば兎といったところでございましょうか。特に兎は神の遣いとも言われる尊き獣にして、捨身慈悲、滅私献身の象徴と謳われておりますが……生憎この螺鈿細工は月夜と竹林を描いており、兎はおりませぬな」
 櫛を見比べていた重実は、店主の語りに
「それだっ」
 と小さく声を上げる。
「月と竹林、それ以上のものはない」
 ようやく重実の顔が綻んだ。
「あいつは俺にとってかぐや姫の如き女子、生半可な物ではその心を掴めんのさ」
「であれば、尚のこと柘植より珊瑚や牛角、それこそ鼈甲などにされた方がよろしいのでは?」
「店主の申す事はもっともだ。だが、柘植でなければ伝えられん想いがあってな」
「はて、それは一体何でございましょう? よろしければお聞かせ願えますか?」
 この時には店主は既に重実の胸の内に興味津々になっていた。
 恐らく財もある、武士としての地位もあろう、そのような男がそこまで柘植に拘る理由は何なのか、と。
「……他言無用だぞ?」
「ええ、お客様の秘め事を漏らすようでは商人失格でございます」
 他言無用と前置きした後、重実は気恥ずかしげに口を開く。
「……初めて柘植櫛をやったあの時から俺の気持ちは少しも変わっていない、そしてこの先も断じて変わる事はない、それを伝えたいが故にあの時と同じように柘植櫛を送りたいんだ」



「重実様が、斯様な事を……」
 紘子は頬を赤らめながら手にした櫛に目を落とした。
 勿論、佐原屋は「他言無用」と重実に言われた事を忘れたわけではない。
 とはいえ、仕入れた情報を上手く扱えぬようでなければ腕利きの商人とは言えない。
 紘子に伝えたところで、彼女はそれを面白おかしく触れ回ったり重実への態度を変えたりはしないだろう、むしろ重実と紘子の仲を取り持つ事で二人の信頼を得て先々上客になってもらえるかもしれないとまで佐原屋は読んでいた。
「佐原屋殿、この櫛は生涯私の宝とさせて頂きます」
 紘子は感激もひとしおにそう言って微笑む。

「お喜び頂けてこの佐原屋も恐悦至極。さて、そろそろ本題でございます」
 佐原屋は形状の異なる三つの風呂敷包みを紘子に差し出した。
「こちらにございますもの全て、清平様より八束様にお渡しするよう仰せつかった品々にございます」
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