第93話 再会・参

文字数 4,767文字

 従重の私室は、奥御殿の北側、当主である重実のそれとは離れた反対側にある。
 雪が紘子を連れて部屋を出た頃、従重もまた露草柄の襖を慌ただしく開け放ち廊下に飛び出していた。

 この半刻ほど前、従重の元には重実帰還の報を持ち忠三郎が訪れていた。
「ようやく城に着いたか……左様か。兄上が落ち着かれたら知らせよ。挨拶に向かわねばならぬ故な。ところで、兄上と紘子は息災であったか?」
 従重の問いに、忠三郎は
「殿はお変わりなく。しかしながら、紘子殿の方は旅の疲れが出たご様子で、殿に背負われておりました。お顔の色も優れないようでした故、この後そのままお休みになられるかと」
 と伝えるが、この後彼は言葉選びを間違ったと激しく後悔することとなる。
「何だと? 紘子が? 背負われるほどとは……それはまこと疲れであるのか? 悪しき病ではあるまいな!?」
「病というほどではないかと思われましたが……」
 紘子の不調を知った従重は立ち上がり、熊の如く室内をうろつき始めた。
「まこと病ではないのか? 万一ということもあろう。藩医殿は呼んでおるのか? こうしてはおられぬ! 北脇、紘子の元へ案内(あない)せよ!」
「従重様、落ち着いて下さりませ。紘子殿はそこまで重篤な様子ではございませんでした故」
 忠三郎がそう言っても紘子を案ずる従重にはとんと響かない。
「この目で見ねば安堵出来ぬ! 北脇、早う案内せよ!」
 ……こうして、従重は忠三郎と共に自室を飛び出したのだった。

 一方、部屋を出た紘子は雪の腕に捕まりながらゆっくりと廊下を進む。
 相変わらず足が竦むような嫌な感覚に囚われるが、雪は紘子のそれを知ってか知らずか
「奥様、向こうの角に飾られております壺は越前の窯で焼かれた逸品だと聞きましたよ。どうりで素朴で締まりの良い風合いでございます。越前には朝永の方が近かったでしょうに、向こうのお城にはあんな立派な壺はございませんでしたよ。それに、もうお気付きでしょうが、廊下に面する障子紙も皆皺一つなく貼られていて明るいでしょう? 毎年貼り替えられているのが良く分かります」
 と次から次へと紘子に話して聞かせた。
「確かに……」
 雪の案内に感心しながら、紘子は壺や障子を見ては目を瞬かせる。
(不思議なものだ……こうして一つ一つ見る度に、少しずつ心が軽くなっていく)
 朝永との決定的な違いを提示されることで「ここは朝永ではない」という確信が積み重なっていくのだろうか、紘子は胸を締めつけるような息苦しさから解放され始めていた。
 それでも拭い去れない不安には、雪の腕を掴むことで懸命に抗う。

 そうして歩くこと間もなく、前方からドタドタと強く廊下を踏みつけながら進んでくる足音が聞こえてきた。
 雪の腕を取る紘子の右手に無意識に力が入る。
 だが、思わず息を呑んだ紘子の前に廊下の角を曲がり姿を見せたのは……他でもない従重だった。
「……っ、従重様!」
「紘子……か?」
 記憶の中にあるこぢんまりとした島田髷の紘子と目の前にいる頭巾姿の彼女の人相が重なるまで僅かばかり時を要したが、従重は愛してやまぬ声から鉢合わせた女性が紘子であることに気付くと感慨深げな表情を浮かべながら彼女に駆け寄る。
「ああ……ああ、紘子……」
 従重の手が紘子の頬に伸び、指先が触れようとした……が、従重はその手を咄嗟に引っ込め、深く俯いた。
「すまぬ、すまぬ……。子細、兄上からの文で読んだ。俺のせいで……俺が、俺が……」
 紘子に付いてきた雪と従重に付いてきた忠三郎は、目配せをしてそっと近場の空き部屋に退く。

 廊下で二人きりになると、従重は一度強く唇を噛んだ後続きを口にした。
「……俺が吉住なんぞと関わらなければ!」
「それは違います!」
 誰もが思わずはっとするような語調で紘子の反論が廊下に響く。
「……暫し、腰掛けぬか」
 従重がそう言いながら外と廊下を隔てる障子を開けると、夕暮れを過ぎ夜の帳が下りようとしている赤紫の空に彩られた庭が視界に飛び込んできた。
 従重は羽織っていた羽織を脱ぐと、それを畳んで廊下に置く。
「長居はさせぬつもりだが、こうも冷えた床にお前を座らせるわけにはいかぬ。これに座れ」
 紘子は愕然とした。
 (いやしく)も藩主の弟、家老でさえ傅く相手、そのような者の羽織を尻に敷くなど到底出来るわけもない。
「そのようなことは出来ません!」
「俺がそうしてほしいと言うておるのだ、そうせよ」
 精一杯固辞してみるも、言い出すと他人の意見を聞かない従重に抵抗したところで無駄であることも紘子は知っている。
「……ありがとうございます」
 紘子は従重の羽織の上にゆっくりと座り、足を横に軽く崩した。
 正座の出来ない紘子を泣きそうな顔で見つめながら、従重は隣で胡座を組む。

「体は大事ないか? お前が優れぬようだと北脇から聞いたのだが……」
 努めて淡々と切り出した従重だったが、その(おもて)には不安が色濃く滲んでいた。
「お城に入ることに気後れしてしまっただけで……お恥ずかしい限りです」
「何を恥じることがあるか。そうであったな……お前は城を恐ろしがっていた。それだけお前は朝永で恐ろしい目に遭うたのだな。だというに、俺は……俺は浅はかであった」
 一心に自責の念を語る従重の言葉は、次第に掠れて震え始める。
「俺はお前の弱みとなり、故にお前は吉住に屈せざるを得なくなった。そのせいで死ぬような目に遭い、斯様な体になり、俺はいくら謝っても謝り足りぬ」
 従重は額が床に着くのではないかと思うほど深く頭を下げた。
「すまぬ……すまぬ……」
(ああ……こんなにもお優しい方を、私はどれ程か追い詰めてしまったのだろう)

 きっと、関わり合いにならなければ彼の繊細な心を痛めつけるようなことにはならずに済んだのだろう。
 己の抱える業に巻き込んでしまったばっかりに、心根の優しい彼をこれ程までに苦しめている。
 不幸になるのならば、己一人で良かった。

 紘子の頬をひと筋の涙が伝う。
「どうか、謝らないで下さいませ。従重様との繋がりがなかったとしても、私は遅かれ早かれ吉住の手に掛かっていたでしょう。私が今こうして生きているのは、従重様が私の隠した三行半と懐剣を見つけ出して下さったからです」
(死なずに済んだ故に、私は今ここにいるのだ。死なずに済んだ故に、私は失いかけていた多くの縁を取り戻し、心から愛する人の傍に居られるのだ。思い起こせば、のぶさんの包丁で怪我をした後も、従重様が私を救って下さった。私は何度従重様に救われてきたのだろう……)
 今度は紘子が流れる涙を隠すかのように平伏した。
「従重様は私の命の恩人です。此度も、あの時も……。まこと、まことありがとうございます。だのに、私はいつも貴方様の優しさに何もお返し出来ず……」
「頭を上げよ、上げよ、紘子。俺は、お前が幸いであればそれで良いのだ」
 平伏する紘子に従重は慌てた調子で声を掛ける。
 そして、言われるままに顔を上げた紘子の頬に光る筋を見つけた彼もまた、涙に頬を濡らした。

 共に無言で涙を拭い、呼吸を整える。
 晩秋の夜風が濡れた頬をひんやりと撫でる最中、落ち着きを取り戻した紘子が切り出した。
「重実様に伺いました。従重様が、私の住んでいた長屋を借りたままにして下さり、子らに学問を授けて下さっていると。私は、どれだけ従重様にお礼を申し上げれば良いのやら……」
「俺がしたくてしていることだ、礼を言われる程のことではない。それに……」
 従重が苦笑を覗かせる。
「……俺は読み書きは出来ても、算術の心得はない。そろばんを弾いて金勘定などという卑しきことは武士のすることではないと父上に言われてな。兄上は父上の目を盗んで学んでいたようだが、俺はそこまで強かにはなれなんだ。情けないだろう?」
「そのようにご自身を仰らないで下さりませ。真っ直ぐなお心をお持ちであるが故にこそ、従重様はお父上様の仰せを愚直に守られたのではありませんか? 従重様のそのお心は、他の者には持ち得ぬ美しきものと私は思います」
「……馬鹿者」
 己を卑下する言葉を吐いた従重は、紘子から返されたまさかの言葉の数々に面食らい俯いた。
「これ以上俺を泣かせるな。全く……お前の言葉は、いつも俺の心を掻き乱す」
「申し訳ございません……」
「謝るな。お前になら、お前にだけは……掻き乱されるのも悪くないと思うておる故」
「従重様?」
 俯いたまま囁かれた一言の真意が紘子の胸奥に引っ掛かる。
 かつて、従重は長屋で「勘当されれば心置きなく紘子を娶れる」と言ったことがあった。
 当時の紘子はそれを冗談と思い大して意に介さなかったが、今目の前にいる従重は冗談を口にするような状況にはない。
(よもや……あの時のお言葉は、冗談ではなかった……?)
 不意に浮かんだ小さな疑惑が、紘子から二の句を奪った。
 そして、悲しいかな従重はその空気を敏感に感じ取る。
「紘子、兄上に嫁ぐのであろう?」
「……はい」
 俯きがちに返事をした紘子に、従重はふっと笑い声を洩らした。
「如何した、兄上に嫁ぐのが本意ではないのか?」
「いいえっ!」
 はっと顔を上げた紘子が見たのは、
「左様か、それは重畳」
 と言いながら、穏やかにしかしどこか寂しげに微笑む従重だった。
(そうもはっきりと断じるとは……少しは躊躇ってくれても良かろうに。だが……それで良い、紘子。これで俺も諦めが付く)

 従重は瞬きを一つした後、改まった様子で口を開く。
「ときに紘子、清平家の紋については知っておろうな?」
「はい、椿紋だったかと」
 即答した紘子に頷きを返し、従重は続けた。
「椿は、木から花ごと落ちる様が武士の首が落ちる様を思わせる。故に椿は武家にとって縁起の悪い花とされ、家紋とする武家はそうそうない。しかし、何故清平家は斯様な椿を紋として掲げるか、分かるか?」
 紘子は視線を左右に振りながら思考を巡らせる。
(縁起の良くないものを家紋として掲げる武家は……ある。三途の川の渡し賃と言われる六文銭だ。けれど、あれは武士の覚悟たる「不惜身命」を表すと言われている。では、椿紋も……?)
「……武士の覚悟を示すため、ですか?」
 確信が得られず小首を傾げながらの答えだったが、従重は感心した様子で軽く目を見張った。
「何も言わずともそこに辿り着いたか、やはり紘子は聡い。正しくは、覚悟と忠義を示すためであるがな」
「覚悟と、忠義……」
「神君家康公が関ヶ原にて一戦構えた折、俺たちの曾祖父に当たる当時の清平家当主は戦功を上げ、この峰澤一万石を授かったという。この時、曾祖父は椿を紋とすることで『この首、徳川のためならばいつでも差し出す』と誓い、以後清平家が椿紋を掲げることを許されたそうだ。武士としていつでも命を懸けるという覚悟と、その命は徳川のためにあるという忠義、これを家紋で示しているのが清平家だ。生憎俺は今の徳川にこの命を使う気にはなれぬが、兄上にはその気概があろう」
 従重は姿勢を正し紘子に正対する。
「紘子、おなごのお前に兄上と同じ覚悟と忠義の心を持てとは言わぬ。されど、この先清平の姓を名乗る者として、己が真に守りたいと思うものにだけは命を懸ける覚悟を持て。少なくとも、俺はこの命を何に懸けるかは既に決めている。すぐにとは言わん、ここで暮らし、生きていく中でそれを見出せ。良いな、紘子」
(何と厳しい仰せだろう。けれど、何と清廉で有り難い仰せだろうか……)
 偽りのない真っ直ぐな従重の言葉は、妥協を許さぬ覚悟を求める厳しいものに聞こえるが、その実は紘子を清平家に受け入れ、彼女にとってかけがえのないものを授けようとする温かなものだ。
 それに気付いた紘子は、真っ直ぐに従重を見つめ、
「はい。有り難きお言葉、肝に銘じます」
 と返すと、丁寧に頭を下げた。
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