第106話 歯車は動き出す・肆

文字数 1,628文字

 峰澤の城に一晩泊まった親房に見送られながら、紘子は左山藩邸が用意した駕籠に乗る。
「客人を先に行かせ、屋敷に招いた張本人が後から追うことになり、申し訳ない。屋敷では我が妻、菜緒が紘子殿を迎える故、どうか勘弁頂きたい」
 親房は申し訳なさそうに頭を下げるが、紘子は笑顔で
「どうぞ、お気になさらないで下さいませ。田辺様も道中お気をつけて」
 と返した。
「ひろ、決して無理はするなよ。体を大事にな。雪、ひろを頼んだぞ」
 親房の隣で見送る重実は相も変わらず過保護ぶりを見せ、見かねた雪が
「お任せ下さいませ。お殿様、冷えは身重の奥様の大敵です故、そろそろ竹簾をお下げします」
 と駕籠の小窓を閉めてしまう。
 やがて駕籠が進み、門から見えなくなると、重実の双眸から紘子に注がれていた甘さが消えた。
「田辺殿、そろそろ本題に入りましょうか」
「……ああ、そうだな」

 二人はいつものように重実の部屋に入り、ぴしゃりと障子を閉める。
「瀬見守様の我儘、あれには偽りはないのでしょう。ですが、俺にはひろをここから遠ざける口実のようにしか思えない。余程ひろに聞かせたくない、知られたくないことがおありのようですが……」
「そこまで察しておいて昨晩紘子殿を快く送り出すようなことを言ったのか。すまないな、心苦しい思いをさせた」
僅かに頭を下げる親房の態度にいたたまれず、重実は発する言葉から棘をなくそうと息を整え己を律した。
「『あの話』は、やはり許しを貰えなかったのですね?」
 重実の言う「あの話」とは、八束幹子の婿養子として公儀が担ぎ上げてきた尾張ゆかりの男子を、幹子の「婿」ではなく「子」として養子縁組し、早々に家督を譲り幹子を「紘子」として自由の身にしようというものだが……。
「ああ……伊豆守様を納得させることはできなかった。私の力不足だ……」
 まともに取り合ってはもらえないだろうという重実の予想通り、公儀はやはり「八束幹子」の婚姻に執着していた。
「これでいよいよ八方塞がり、万策尽きたことを告げねばならぬ故ひろを遠ざけたのですか?」
 重実の淡々とした物言いが胸に刺さり、親房は微動だにできない。
(「策」は成った……成ったのだよ、重実。だが、それをお前に告げるのが……私はどうにも辛いのだ)
 膝の上で袴をぎゅっと握りながら、親房は声を絞り出す。
「……公儀から、伊豆守様を通じて書状を預かってきた」
 そう言って懐から出そうにも手が震えて包みがカサカサと音を立てるが、親房は震えを止めようと歯を食いしばりながら書状を取り出し、重実の前に差し出した。
(田辺殿のこわばり……尋常ではない。一体どんな沙汰が下されたと言うんだ?)
 重実もごくりと一つ唾を飲み込み、書状を手に取り開く。彼がそれを暫く無言で読み進める数秒が、親房には数分にも数刻にも思えた。
 始めは眉をしかめる程度だった重実の表情が、次第に歪み……最後まで読み終えた彼は愕然と目を見開き唇を震わせる。

 旧朝永藩主鬼頭貞臣殺害の下手人として手配されし八束幹子、
 この者下手人にあらずと明らかになるも、
 裁きにおいて救いしこの者、真の八束幹子にあらず
 真の同女は行方知れずにして、生死も分からず
 裁きの場に居しこの者、公儀に嘘偽りを申し立てた由にて斬首のところ、
 裁きの予後悪しく既に死したため処さず
 されど、偽の者を同女に仕立て公儀に生存を申し立て、
 公儀の政を乱した罪深く、甚だ許し難し
 よって、偽の者を同女として公儀に申し立てし峰澤清平家清平従重に切腹申しつける
 峰澤清平家、改易の沙汰を下すところなれど、
 清平従重の切腹を以て改易を免じ、追って沙汰する

  清平従重に切腹申しつける

「は……? これは……これは、何故……?」
 掠れた声で呟き、重実は書状の上で何度も視線を右に戻して読み返した。何度も、何度も。
 しかし、何度読み返しても、その文言が変わることはない。

  清平従重に切腹申しつける

 重実の手から、書状がはらりと畳に落ちた。
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