第15話 楽しむということ

文字数 2,325文字

 縁台に腰掛けた重之介と紘子の元に運ばれてきたのは、木の棒に刺さった川魚の塩焼きと黒米の握り飯を載せた盆だった。
 重之介は紘子の前で川魚に豪快にかぶりつく。
「ふぁっ……あふっ!」
 焼きたての川魚は熱く、重之介ははふはふと口に空気を送り込んだ。
「あー、あつっ。いやしかし、美味い!ほら、ひろも熱いうちに食えよ」
「い、いただきます……」
 ひろは木の棒ごと川魚を持ち上げ、重之介を真似ながらも控え目にかじる。
 皮の焦げた香ばしい香りと塩味が口の中に広がった。
「美味しい……」
 決して手の込んだ料理ではないが、出来たてだからこその旨味がそれにはある。
 自然と、彼女の口は浅い弧を描いた。
「へぇ、いい顔をするじゃないか」
 紘子に向けられる重之介の顔も微笑んでいる。
「そういう顔、もっと見せりゃいいのに」
「え?」
 紘子は思わず表情を強張らせてしまった。
 すると、重之介は
「おいおい、せっかくいい顔してたのに、全く……」
 と気落ちした様子を見せると、食べかけの川魚をくるくると眼前で回しながら話し出す。
「この魚は、すぐそこの川で獲れる何の変哲もないただの川魚だが、ここの旦那がその日に釣った新鮮な魚を注文が入ってから焼くから実に美味い。おまけに旦那はここでもう何十年も魚を焼き続けているから、焼き加減も塩の振り方も絶妙だ。しかし……」
 重之介は紘子に視線を移した。
「それらだけでは本当の意味で美味い塩焼きにはならんのさ。さてひろ、この塩焼きを本当に美味いものにするには、何が必要だと思う?」
「……」
 紘子は真剣に悩みながら、塩焼きを凝視する。
(ひろはとんだ真面目の堅物だからな……このまま放っておくと、答えが出るまでこのままだ。せっかくの魚も冷めてしまう)
 重之介は内心くすりと笑いながらも、それを堪えて種を明かす事にした。
「食を楽しむ気持ちさ」
「楽しむ?」
「そう。人間、思い詰めてると食事が喉を通らないなんて事はざらだろう?人の心ってのは実に食欲や味覚に作用する。食う気になれない時に無理して食っても味なんざ殆ど分からないものだ。あとは、他の事に現を抜かして食事を疎かに考えている時もそうだな。そういう時は自分が何を食べたかさえ覚えていなかったりする。そんな風に食われたら、この魚も浮かばれないと思わないか?どうせ奪った命なら、有り難く、少しでも美味く馳走になってやるのが人情ってもんだろう?」
「……」
 紘子は重之介に何を返すでもなく再び塩焼きをかじる。
 一口、もう一口と食べ進める。
 ふと、かつて食卓で交わされていた賑やかな会話が耳の奥に甦った。
(子供の頃に食べたお魚は、本当に美味しかった……確かに、あの頃は食事に楽しみを見出していた。そう、楽しかった……)
 紘子は魚の身を飲み込むと、重之介を見つめる。
(この塩焼きを一口食べた時、驚く程美味しかった。あれはきっと、私がこのひと時を楽しんでいたから。重之介様と食事をするこのひと時を、ほんの一瞬でも全てを忘れて楽しんだからだ……)
「……重之介様、ひとつお聞かせ下さい」
 突然の頼みに、重之介はぽかんとして
「あ、ああ」
 と間抜けに返したが、紘子は真剣そのものの表情で続けた。
「生き残った者が生を楽しむのは、先立った者に許される事でしょうか」
 重之介はぴくりと片眉を上げる。
(……ひろ?)
 重之介の知る限り、紘子が言う「先立った者」とは恐らく両親の事だろう。
 その両親に許してもらえるかどうかを気にするという事は……。
(こいつ、親が死んだのは己のせいだと思ってるのか……それでこいつは今も己を追い込んでるのか?)
 その真意を問いたい気持ちが喉のすぐ手前まで出かけていたが、
(いや、待て……)
 と重之介は自制した。
 紘子が重之介の前で自ら己の「秘め事」について触れた事は恐らくこれが初めてだ。
 それは、彼女が重之介に心を開き始めている証に他ならない。
 開きかけた胸襟に無理やり手を掛けようとすれば、より頑なに閉ざされてしまうかもしれない。
(この俺が、おなご相手に臆病風に吹かれるとは)
 重之介にとってはそれだけ紘子が「特別」だった。
 せっかく詰めてきた距離が開いてしまう事に恐れを抱く程に。
 重之介は紘子の「暗部」を避けて答える。
「先立つ者にとって、この世に残していく縁者は気掛かりだろう。余程根深く恨んでいる奴でない限り、大抵は己が死んだ後も幸いに暮らしてくれる事を祈るもんじゃないか?残された生を精一杯楽しく全うするのが先立った者に対する一番の供養になる。そういう意味では、この魚と同じだと俺は思うがな」
「そういうものでしょうか……」
 紘子は視線を塩焼きに戻すと、その頭にかじりついた。
(父上、母上……私が今を楽しんで生きる事を、お許し下さいませ。せめてこのお方と一緒にいる時だけは、思うままに生きてみたいのです。お許し頂けるのであれば、私は皆が繋いでくれたこの生を、精一杯全うしとうございます。精一杯、楽しみとうございます……)
 ぱりっと乾いた音と共に、紘子の頬が緩む。
「とっても美味しいです」
「……っ」
 重之介は返す言葉を失った。
 今目の前で紘子が浮かべた笑顔には陰がない。
 彼女の心からの笑みは、重之介の芯を揺さぶる。
「そ、そうか……ああ、それは良かった」
 どうにも見ていられなくなり、重之介は紘子から目を逸らした。
(全く、俺としたことが……)
 重之介は無心に焼き魚を口に突っ込む。
 さっきまで美味いと感じていた筈のそれは、今は何故か味が良く分からなくなっていた。
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