第81話 左山奇縁・弐

文字数 2,449文字

「こちらです!」
 三木助は倒れたままの男の傍に片膝を着いた。
「しっかりなされ! これから医者に――」
「三木助」
 背後から重実が三木助の肩を掴む。
 振り向いた三木助に……重実は小さく首を横に振ってみせた。
 倒れている男は鉄色小袖に黒袴、大小の太刀を腰に差しておりどこぞの用人と見えるが、抜き身の刀は道沿いの藪の下に転がっており、腰には空の鞘と脇差しが差されている。
 地に染み込んだ血と蒼白な顔、虚ろな目と震える唇が、男が死期にあることを如実に表していた。
「重実様っ」
 後れて駆けつけた紘子がそろそろと枇杷丸から降りる。
「ひろ、見るなっ」
 残酷な光景を見せたくなくて重実は咄嗟に紘子を遠ざけようとしたが、地面に投げ出された男の両足と辺りに漂う血の臭いが紘子の視線を男に釘付けにした。
(重実様が見るなと仰るということは、あの人はもう……けれど……)

 人は、多かれ少なかれ誰かの死を背負って生きる。
 親兄弟、師、友、主従の間柄にある者……如何に天涯孤独であっても、生まれたばかりの赤子のうちに死なない限りは人との関わりは避けられず、そうして生きるうちに直接的にしろ間接的にしろ誰かの死に触れるものだ。
 そして、人は誰かの死を記憶として、或いは罪として、傷として、背負っていく。

 紘子の中の「傷」が痛んだ。
(父上母上はさぞ無念だっただろう……私のせいで謂れもなき罪を被せられ、その弁明を聞き届けてくれる者もなく。あの人は恐らくここで賊にでも襲われたのだろう、形は違えど理不尽な目に遭い最期を迎えなければならないのは私の両親と同じ、会いたい人の一人や二人、言い残したいことの一つや二つもあるだろう。父上母上にして差し上げられなかった分、あの人の言葉は聞き届けてやらなければ。それに……)
 紘子は真っ直ぐに重実を見据える。
(先程三木助殿は「人倒れ」と言っていた。三木助殿はあの人が死ぬとは思っていなかった、助けられると思ったに違いない。それがこうしているということは、きっと重実様が三木助殿を止め、あの人に引導を渡そうとしているのだろう。そうして三木助殿に悔恨の気持ちを持たせぬようにしているのだ。重実様はいつもそうだ、周りに弱い所を見せず何でもお一人で耐えようとする。今も、見ず知らずのあの人の死をお一人で背負おうとしている。私は、それがもどかしくて……少し、寂しい)
「……刻がありません、やれるだけのことをして差し上げましょう?」
「ひろ……」
 瞠目する重実の前で紘子は三木助の反対側に跪くと、男の痛ましい姿に一度きゅっと唇を噛んだ後、意を決した面持ちで男に囁く。
「ここで会うたも縁にございます、思い残すことあらば、仰って下さいませ」
「あ……あ……」
 男の目の焦点が紘子を捉えた。
 伸ばされた震える手を、紘子は血に汚れることも厭わず握る。
「姉、上……」
 涙ぐむ男の口から零れたのは、姉を呼び求める声だった。
 悲しみに思わず歪みそうになる顔に懸命に微笑みを湛え、紘子は男に語りかける。
「……ここに。其方の姉は、ここに。お役目、立派に果たされましたね。其方は自慢の弟です。まこと、まこと良く頑張りました」

 直後、男は息絶えた。
 しかし、その顔は苦痛と悔恨から解放された穏やかなものであった。

「……ひろ、すまない」
 重実は静かにそう告げながら頭巾の上から紘子の頭を撫でる。
「お前にはあまり見せたくなかった」
「私は、貴方様の傍で貴方様と同じものを見て生きていくと決めたのです。貴方様と共にあるなら、目を逸らしてはならぬこともありましょう」
(ああ……俺は、こいつの強さを知りながら、どこかでこいつを見くびっていたんだな。お前がただ守られるだけのか弱い女子じゃないってことを、忘れていた)
 重実は僅かに苦笑した後、
「ありがとうな。お前のお陰で、この者も姉に会えぬ無念を少しは晴らせただろう」
 と紘子の頭をぽんともうひと撫でした。
 そして、自身の脇差しを抜くと男の髷を丁寧に切り取り懐から出した懐紙で包む。
 更に男の着物の襟裾を捲り検め始めた。
「殿、何を……?」
 三木助の問いに、重実は手を止めずに答える。
「身なりからしてこの男はどこぞの大名家に仕える用人、しかも忍や密偵の類と違って身分を偽り隠す必要のない者と見た。ならば万一の時のために己の身の上を着物に刻んでおるやもしれん。それが分かれば遺髪を届けてやることも出来るだろう」
 そうして着物の裾を引っ張り出し裏返したところに、それはあった……が。
左山(あてらやま)佐野家用人、富樫信太郎(とがし しんたろう)……」
(左山藩士だったとは……)
「左山……確か、公儀の要職も務める雄藩だと聞いたことがありますが」
「ああ、十万石の雄藩だが……」
 紘子は至って平静な様子だが、イネは違う。
「左山……」
 呟くイネの表情は彼女らしからぬひどく険しいものだ。
(そうか……ひろの縁組みを推し進めたのが瀬見守様だということを、当時のひろが知るには幼いとして聞かされていなかったとしても不思議はないが、イネならば八束殿から知らされていてもおかしくはないな)
 重実はこの後のイネの反応を懸念するが、イネは感情を押し殺し黙って富樫の遺体に手を合わせた。
 それを見て、重実は心を決める。
(今夜辺り、田邉殿からの申し出を打ち明けた方が良さそうだな。イネがどう出るかは分からんが、このまま瀬見守様への恨みを抱えたままではイネも苦しかろう)

「ひとまず、役人を見つけて事の次第を知らせないとな。三木助、この先を抜ければ町がある筈だ。ひと足先に行って役人に声を掛けろ。そうだな……お前の身の証はこれで」
 重実は家紋入りの手拭いを三木助に手渡した。
「いいか、相手に少々睨まれようと臆するなよ? これを見せて俺の名を出せば、いくら若いお前の言でも信用される」
「はっ!」
 三木助が恭しく手拭いを受け取った、その時。
「何だぁ? 次はお武家の一行か、こりゃ稼げそうだ」
 手入れのなっていない剥き身の刀を手に、薄汚い格好の男が五人茂みの中から姿を現した。
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