第11話 抱える闇

文字数 2,381文字

 障子戸越しに差し込む朝日に、紘子は眩しげに眉を寄せながら体を起こした。
 木戸屋からの帰り、重之介に背負われてからの記憶は曖昧だ。
 当然の事ながら、夕餉を摂った覚えもない。
 こうして自分の部屋でいつものように一人で寝ていたところから察するに、恐らく重之介に送り届けられた後そのまま床に就き、彼の方はすぐに帰ったのだろう。
 これ程深く寝入ったのはいつぶりだろうか。
 お陰で昨日に比べ体も軽い。
 熱が引いているのも実感出来る。
(今度重之介様にお目に掛かったら、きちんとお礼をしなければ)
 紘子は布団を畳みながらぼんやりとそんな事を考えてみるが、今の自分の稼ぎで一体どんな礼が出来るというのか。
 せめて反物のひとつでも手に入れば、羽織を仕立ててやる事も出来るのだが……。
(反物屋さんに、仕立ての注文を回してもらえないか訊いてみようか……)
 反物屋と懇意になれれば、良い反物を安価で流してもらえるかもしれない。
(重之介様には、濃い緑の羽織などお似合いかもしれない)
 質素な着物姿の重之介を思い浮かべ、それに深緑の羽織を被せてみる。
 懐の深い大らかな彼の笑みが羽織に映えた。
 ふと行李の上に目をやると、片付け忘れて立てかけたままの手鏡がこちらに向いていた。
 鏡に映る己の顔に紘子は思わず息を止める。
(ひとりでに笑っているなんて……どうかしている)
 いつの間にか緩く口元を上げていた自分に彼女は戸惑った。
(自分のこんな顔を見るのは、子供の頃以来かもしれない……私は何を浮かれているのだろうか)
 そして、その顔は視線が行李の下方に落ちれば曇ってしまう。
 紘子は今日も行李を開けた。
 奥底にしまっている書状と懐剣を再び取り出す。
 皺が寄り薄汚れた書状の包みをそっと開け、中の文を広げた。
 そこには三行半の文言。
 紘子は思わず身震いする。
 地獄のような日々、恐怖の逃亡生活、思い出すだけで血の気が引いていく。
 そして、それが今なお続いているのだという現実に引き戻され、深緑の羽織姿の重之介は靄に掛かって消えた。
(あの男は――私に罪を着せ捕らえようとしている吉住(よしずみ)は――何処までも周到で計算高い男だ。重之介様の事を知ったら、どんな手を使ってくるか分からない。このご時世、浪人の一人や二人行方知れずになったとて、ご公儀はまともに取り合っては下さらないだろう。重之介様の存在を危ういと思えば、吉住は重之介様を容易く葬り去るに違いない……)
 紘子は書状を畳み、今度は書状と一緒に取り出していた懐剣を見つめる。
(椿は、武家の間では縁起の良くない花とされている筈。椿を家紋としている武家も滅多にないと聞く。少なくとも、私の知る辺りにはそうしたお家はなかった。これを下さった若殿様は、一体何処のお家の方なのだろうか)
 紘子の中に当時の記憶が甦った。
 二年前、信州から京方面に登ろうとして脱兎の如く江戸方面に転進、江戸を過ぎやや東に進んだ峠で、紘子はこの懐剣を授かっている。
 足を痛めた若殿の手当てをした礼に貰ったのが、この懐剣だ。
(あの若殿様は、私に「生きよ」とこれを下さったに違いない。生活に困ったら、これをお金に替えるなり、椿紋の武家と繋がっている事を示して仕官なり職を貰うなりせよと、そういう事だった筈。武士の情けには誠を以て返すもの。生きられるうちは、生きなければ……)
 だが、椿紋を表に出したり、訊いて回ったりするのは危険過ぎる。
(私が罪を着せられたまま死罪となれば、この懐剣の元の持ち主まで罪人と関わったとしてあらぬ罪に問われかねない……問われずとも、取り潰しや減封の由にはなってしまう)
 この時代、大名家の処分はかつてない程頻繁に行われていた。
 些細な理由で取り潰されたり、所領を減らされる「減封」の沙汰を受けたりと、諸国の大名たちは戦々恐々としていたのだ。
 罪人と物をやり取りする間柄だったなどと取り沙汰された日には、幕法違反だの公儀の威信を貶めただのとして処断されるのは目に見えている。
(この懐剣は、大切に隠しておこう)
 紘子はこれまでのように書状と懐剣を行李の奥底にしまった。
 その時、懐剣をくれた若殿から下って下ってふと従重の事を思い出す。
(そういえば……従重様はここのお殿様の弟君だと仰っていた。あまり私と関わるのはあの方のためにならないかもしれない……)
 そう冷静に考えつつも、性分なのだろうか紘子は従重の事が心配でならない。
 木戸屋でのやり取りを思い出すと、従重が強い孤独感を抱えているように紘子には思えたのだ。
(育ちのせいか横柄ではあるけれど……何だか、お寂しい思いをされていらっしゃるように見えた。従重様は、本当はひどくお優しい方なのかもしれない。お優しいが故に、繊細なお心をお持ちなのではないだろうか。私がお相手する事で従重様の気が紛れるのならお力になりたいけれど……)
 そこまで考えて紘子は力なく首を横に振った。
(あの方と接する機会が増えると、私の存在が武家の間で広まりかねない。目立ってしまうと、吉住に私の居場所を探り当てられてしまう……)
 溜め息、ひとつ。
(重之介様といい、従重様といい……立て続けに全く不思議なご縁だ。けれども……)
 身支度を整えながら、紘子は室内を見回す。
 部屋の隅には子供たちが何度も字を書いた紙が重ね置かれていた。
(暫くしたら、ここを引き払って黙って旅に出た方がいいかもしれない。その方が、あの方々を巻き込まずに済む。けれど、私がいなくなったらきっと誰もあの子たちに学問を授けてはくれなくなる……)
「もう少し……もう少しだけ、ここにいよう」
 紘子はそう呟くと、女性にしてはやけに短い髪の毛を簡素に結い上げた。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み