第25話 従重の恋心

文字数 4,402文字

 番傘に雨を受けながら、従重は城への坂道を上る。
「約束を放って、紘子は何処へ行ったのだ……」
 この夜、従重は紘子の長屋を訪れていた。
 本来なら今日はたきの養子縁組についての回答を紘子から聞く筈だったが、その紘子が長屋にいなかったのだ。
(長屋連中も皆まるで隠れるかのように灯を消し戸締まりしていた。全く、あの長屋で一体何があったというのだ……)
 旅籠で飯盛女を抱いていた従重は、夕刻東町で起こった騒動を知らない。
(あの紘子が、俺との約束を反故にするとは思えん。明日にでも真意を確かめねば気が済まん)
 そう考えながら城への帰路に着いていた従重だったが、ふと前方に「何か」を見つける。
「何だ、あれは?」
 従重は警戒しながら歩を進めた。
 次第にその「何か」は形を帯び、道に倒れた人間だと気付くまでにはそう時間は掛からなかった。
 従重は刀を腰から外し、刃を鞘に納めたままうつ伏せに倒れた者をつつく。
「おい、如何した?」
 従重は目を凝らした。
 夜闇に紛れてよく見えなかった黒髪が、その者が女性である事を告げる。
(寝間着姿の女が、何故斯様な所に倒れておる?しかも、裸足ではないか……)
 従重は番傘を差したまま屈み、女性の体を表に返した。
 そして、見知った顔に愕然とする。
「……紘子っ!」
 紘子の寝間着の合わせからは、血の滲んだ包帯が覗いていた。
「紘子、如何したのだ!? この怪我は何だ、紘子!」
 番傘を放り捨て、従重は紘子を抱き起こす。
「……逃げ、なくては……逃げ……」
 紘子が息も絶え絶えに呟く言葉に、従重は歯がみした。
(この辺りは城に出入りする者しか通らぬ筈!おのれ、誰だ……誰が紘子を城に連れ込んだのだ……!)
 紘子が大名家に対して強い恐怖心を抱いている事を従重は知っている。
 そんな彼女が自ら望んで大名家を象徴する城などに登るわけがない事も、従重には容易に推察出来た。
 ならば、何者かが紘子の意に反して彼女を城に連れていったとしか考えられない。
 抱き起こした紘子の体は、雨に打たれてひどく冷たい。
 だというのに触れた首筋は熱く、彼女が高熱に見舞われている事が分かる。
「安心せよ紘子、俺が長屋に帰してやる。暫しの辛抱だ」
 従重は自身の羽織で紘子を包むと、横抱きにして駆け出した。

 障子戸から差し込む朝日に、紘子はうっすらと瞼を持ち上げた。
(そうだ……逃げなくては!)
 紘子は朦朧とする意識のまま起き上がろうとするが、脳天を突き上げるかのような激痛に思わず悲鳴を上げる。
 その声を聞いた従重は慌てて紘子の傍にすり寄り制止した。
「落ち着け紘子、ここは長屋だ、城ではない!」
「『紘子』……?」
 紘子はまるで他人の名でも呼ぶかのように自身の名を呟き、見知らぬ者を見るかのような目で従重を凝視する。
「如何したのだ、俺を忘れたか」
 従重越しに目に入るのは、薄汚れた壁に黄ばんだ障子戸、天井の低い長屋。
 城とは似ても似つかぬ光景だ。
「まさか、熱で頭がおかしくなったのか……」
 焦りと不安を渦巻かせた瞳を揺らす従重と長屋の中を見回しているうちに、紘子は徐々に過去から現在に引き戻されていった。
「……よ、りしげ、様?」
「紘子……ああ、良かった……動くでない、床に入れ」
 従重は隈の浮かんだ目を安堵に細め大きく息を吐くと、紘子に布団を被せる。
「昨夜雨の中で道に倒れておったのだ、無理をするでない」
「雨が……降っていたのですか?」
 熱のせいで息苦しさを感じながらも紘子は従重に尋ねた。
「何だ、覚えておらぬのか?」
「はい……怪我をしてからの事は、全く……」
(のぶさんの包丁が刺さって、たきが借金取りに連れていかれたところまでは覚えている……けれど、その後の事は何も……)
 障子戸から差し込む朝日からして既に一晩明けたのであろう事は分かるが、その間の事はまるですっぽり記憶が抜け落ちているかのように「無」だ。
「従重様が、私をお運び下さったのですか……?」
「……っ」
 これにはどう答えようかと、従重は眉間の皺を深める。
(恐らくは、何者かが紘子を城に運んだのだ……こいつを救うために。包帯の巻き方から察するに、藩医殿辺りが手当てされたのだろうが……。だが、そもそも紘子がああなったのは城に連れ込まれたせいだ。ここに医者でも呼びつけていればこんなにも苦しまずに済んだかもしれぬのだ)
 何者かに対しふつふつと湧いてくる怒りを堪え、従重は答えを決めた。
「……まぁ、そのようなところだ。流石に着替えは長屋の女衆に命じた。買ってもいないおなごを裸にするなど武士のする事ではないからな。女衆には、怪我が治ったら礼のひとつも申すと良い」
(正しくは、寝静まった長屋の女衆を叩き起こして命じたのだが……こいつには伏せておいた方が良かろう)
「……はい」

 従重を見てようやく心が現在に戻った紘子は、
(ああっ、そうだ……たきの事でお返事をする筈だったのに……早くお伝えしなければ……)
 と、思い出したように話し出す。
「従重様、申し訳ございません……たきが……」
「その事はもう良い」
 従重は紘子の言葉を遮ると、
「昨夜長屋の者たちに子細聞いた。お前に咎はない」
 と、一語一語を噛みしめるようにゆっくりと返した。
「ですが……」
 紘子はまたも無理を押して起き上がるが、血の抜けた頭ではまともに起きていられずぐらりと反っくり返る。
 従重は咄嗟に手を伸ばし紘子を支えると、そっと布団に下ろした。
「何度言わせるのだ。たきの事は、お前に何の非もない。それより……」
 従重の目が細められる。
「たきの母親に刺されたというのは、真か?」
「……」
 紘子は答えに窮し、
「……転んで木の枝が刺さっただけにございます」
 と苦し紛れな嘘を吐いた。
「この馬鹿が。斯様な嘘でこの俺を誤魔化せると思うてか。だが……」
 従重は仄かに苦笑いを浮かべる。
「そういう事にしておいてやる。お前がそう望むならな。全く、つくづく損な生き方しか出来ぬおなごだな、お前は」
(どうせ、売られたたきの事を思うておるのだろう。母親が罪人となればたきも悲しむであろうからな……)

 しかし、そこまで思って従重は内心に戸惑いを覚えた。
(待て、俺はいつからこのような甘い考えを持つようになった……?)
 町人の子がどこに売られようと、紘子がどんなに懇願しようと、人を刺せば咎は咎として断罪すべきでそれによって誰が悲しもうと知った事ではない……これまでの従重ならそう考えるのが当たり前だった。
 それなのに、彼は今たきや紘子の心を慮っている。
 従重は困惑したまま紘子を見つめた。
「従重様……」
(ああ、やはりこの方はお優しい方だ……)
 紘子の方は従重の心の惑いなどに気付く筈もなく、熱に浮かされた瞳を従重に向けている。
 こんな時だというのに、紘子の潤んでぼうっとした無防備な眼差しは従重にはどうにも色っぽく見えてならない。
(馬鹿者、何故そのような目で俺を見る……っ)
 気を抜けば掻き抱いてしまいそうになる手を、従重は拳を握り引っ込めた。
 昨日はあんなにも無遠慮に飯盛女を撫で回したその手を、紘子の前には何故か差し出せない。
(何故、これ程までに苦々しいのだ)
 後悔と名付けるべきか、罪悪感と呼ぶべきか……こんな思いは初めてだった。
 昨日の情事を紘子にだけは悟られたくない、そう思っているのに彼女を見つめる己の視線を逸らす事が出来ない。
 紘子には、紘子にだけは、誠の心を以て触れたいと、そんな思いまで湧き上がってくる。
(俺はよもや……好いているのか?紘子を……)
 そう己に問いかけた瞬間、胸の内でとぐろを巻いていた戸惑いがするりと解けたような気がした。
(故に、俺はこいつに甘いのか……?)

 今まで知らずに来た己の甘い一面と、今味わっている苦い感情に理由が付けば、あとはただ……受容の一途だ。
(この俺が、おなごを心から好くとは……だが、それならば合点もいく。俺は、こいつが愛しいのだ……故に、何よりも大切にしたくてこうなるのだ……)
 いつの間にか、従重の顔には絵巻物をくれたいつぞやの晩と同じ優しげな微笑が浮かべられている。
 そんな従重を見つめたまま、紘子はそっと上胸の傷に手を当てた。
 血が滲んで赤黒く染まっているものの、包帯はしっかりと巻かれている。
(これは、お医者様が巻いて下さったのだろうか……となると、この長屋に誰かがお医者様を呼んで下さったのか……それも、もしや従重様が……?この方は、私のような者にこうも情けを掛けて下さるのに、私はただそれを受け取るばかり……)
 体が弱っているせいか、紘子の心はひどく不安定になっていた。
 そこに傷を負っての高熱とくれば、感情の抑制は利かなくなる。
 己の不甲斐なさと従重の心遣いへの感謝がないまぜになり、視界の中の従重がだんだん涙に霞んでいった。
「申し訳、ございません……私は、貴方様の優しさに……何も……お返し出来ず……」
 紘子の目尻を涙が伝う。

(全く、見ていられん)
 紘子の涙を見た従重は、喉の奥をくっと締められるような苦しさに襲われた。
 同時に、紘子への慈しみの感情が強く湧き起こる。
「馬鹿者、斯様な時まで他人に気遣いなどするでない。もしもお前の気が済まぬと言うなら、傷が癒えた後俺にまた敦盛最期を聞かせよ。礼はそれで十分だ」
(そのように優しくされては、余計に涙が……)
 従重らしからぬ穏やかな声色に、紘子の口からは嗚咽まで漏れ始めた。
「うっ……よ、りしげ、様……っ」
 従重は引っ込めていた手を出すと、そっと紘子の頬に添える。
 指先で紘子の涙を拭うと、今度はその手で彼女の瞼を静かに下げた。
 旅籠で露わになった女の柔肌の上を滑らせた時に感じた温もりとは全く別の「熱」が従重の心を解かす。
 何とかして楽にしてやりたいと、その気持ちをなだめてやりたいと、従重の胸の中は紘子への慈愛で溢れた。
(不思議なものだ……この世には、こんなにも大切にしたいと思うものがあるのか)
 それは、自分には何もないと、生まれた時から全て兄に奪われていたのだと……そう思ってきた従重にとって初めて「心底大切にしたいもの」が出来た瞬間だった。
(俺が守らねば……俺がこの手で守らねば)
 紘子の視界を優しく塞いだまま、従重は囁く。
「熱のせいで気が昂ぶっているようだな……もう余計な事は考えずに寝よ。寝なければ治るものも治らん」
 触れる指の温もりが、紘子を眠りの淵に誘い……。
(従重様……)
 心の中で従重の名を呼んだところで、紘子の意識は昏々と落ちていった。
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