第14話 富士の頂

文字数 3,127文字

 寺での「用事」を済ませた重之介は、何食わぬ顔で紘子の元に戻ると、再び馬に乗り移動を始めた。
(こいつが打ち明けてもいいと思えるだけの信が、俺にあればな……)
 と、力及ばずの己に小さく落胆しながら。

 やがて、紘子の眼前に低い崖下を流れる清流が木々の間から見えるようになった。
 馬は狭い山道をゆっくりと下り、清流沿いに建つ古びた茶屋の前に辿り着く。
「さあ、着いた」
 馬を繋ぎ重之介が案内した店先には、香ばしい匂いが漂っていた。
「旦那、塩焼きと握り飯二つずつね」
 慣れた調子で重之介が店の中に声を掛ければ、嗄れた老齢男性の
「へい」
 という返事。
「出来上がるまで暫くかかるだろうから、ちょっと散歩だ。ほら、おいで」
 重之介はさも当然のように紘子に手を差し出した。
(別に、具合もそこまで悪くないし、足下だってそんなに荒れていない。ただ歩くだけなのに、何故……?)
 出された手と重之介の顔を交互に見ながら、紘子はつい自分の手を腰の後ろに隠してしまう。
(重之介様は、誰にでもそうなさるのだろうか?それとも、相手が病み上がりの私だからだろうか?病み上がりでなかったら、重之介様は私にお手を差し出されていただろうか……?)
 そこまで考えを巡らせて、内心はっとした。
(私は、今何を思っていた……?)
 浮かんだ疑問に垣間見えた「本音」に、紘子は思わず息を呑む。
 重之介が誰彼構わず手を繋ぐような者であってほしくない、手を繋ごうとするのは相手が自分だからであってほしい、それも、自分の容態を慮ってではなく、ただ相手が自分であるという理由であってほしい……そんな本音に。
(とんだ思い上がりだ……それでもしも重之介様が巻き込まれたら、私はどんなに悔やんでも悔やみきれない)
 紘子は隠した手をきゅっと握り、顔を俯かせた。
(理由がないと駄目なのか、それとも単に恥じらいでるだけか……少なくとも、後者ではなさそうだな)
 紘子が何に葛藤しているのか分からない重之介は、そんな彼女を見て寂しく笑む。
「はぐれるなよ」
 手を拒まれた事を意に介していない体を装い、重之介は背を向けた。

 散歩と言っても何の事はない、重之介が紘子を案内したのは茶屋の裏手だ。
「ちゃんとはぐれずに付いてきたな。さすがにひろは賢い」
 賢いも何も、これではぐれようものならとんだうつけだ。
 冗談とすぐに分かる重之介の言葉に紘子はうっすらと微笑む。
 だが、その笑みにはやはりどこか陰があった。
 それは重之介が初めて会った時から感じていた事だ。
 言うに言えない何かしらの事情を抱えている者が醸し出す陰――それがずっと紘子には付きまとっている。
 重之介はそれにはあえて見て見ぬふりをして、木々の間から覗く遙か向こうの景色を指さした。
「ひろ、よぉく目を凝らしてごらん。何が見える?」
 紘子は言われるがまま重之介が指す方向に視線を投げる。
 今日は雲一つない晴天、空気も澄み随分遠くの景色まで良く見えたが、その最奥に覗く山頂に紘子は瞠目した。
「あれは、富士の山ですか……!?」
「ご明察」
 得意気に口角を上げる重之介の前で、紘子の目は富士の頂に釘付けになっている。
「ここは、富士のある地から随分遠い筈なのに……」
「そうだな、本来ならそんなに簡単に見える距離ではない。今日の天候、この茶屋がある丘の方角や標高、ちょうど頂を避けるかのようにそびえる山々、視界を遮らない木々の茂り具合……この景色はまさに偶然の産物さ」
「偶然の産物……」
 何か考え込んでいる様子の紘子の隣に並び、富士を眺めながら重之介は語り出す。
「偶然が偶然を呼び、奇跡を起こす……人と人の出会いも、似たようなものだと思わないか?俺は偶然あづまでお前と出会って、偶然おばちゃんにお前が長屋で子供たちに学問教えてるって聞いて、興味本位に覗いてみたら偶然お前が倒れて……そして、二人で富士を眺めるという奇跡が起こった。な?俺たちが並んでここにいるのは、ここから見える富士と同じだろう?」
(重之介様は、理路整然に何とも壮大な事を仰る。そのようなお考えは、一体どうしたら生まれるのだろう?)
 紘子の目は大きく見開かれたまま、瞳に重之介を映した。
 その重之介は、紘子の思考の更に上を行く。
「『御文、不死の薬の壷並べて、火をつけて燃やすべき由』……辺りだったか?竹取物語で語られる富士の名の由来」
「そうですが……」
 重之介はしてやったりという悪戯めいた笑みを見せた。
「お前、長屋で子供に竹取物語を書き取らせていただろう?それを思い出して、らしくもない風流めいた真似をしてみたくなってな。諳んじているという事は、これまで相当読み込んできたという事だ。ならば、それだけひろにとって愛着の深い物語に違いないと思った。そんなお前が本物の富士を垣間見られたら、どれ程喜ぶか……とな」
(重之介様は、私のためにそこまでお考えに……?私を……私を、喜ばせようと……?)

 紘子はこれまで、人ならば誰かを大切に思い、己もまた誰かに愛される事は当たり前だと思って育った。
 父も母も紘子に惜しみない愛情を注ぎ、紘子もまた、両親を、そしてその目に留まる者たちを大切に思いながら生きてきた。
 しかし、そんな紘子の「常識」がてんで通用しない世界が、かつて彼女を飲み込んだ。
 「あの者」たちには、愛情や慈しみの情を交わし合える余地がまるでなかった。
 そのような者たちの中で二年近くを生きた紘子には、重之介のこの心遣いはとてつもなく大きな衝撃だった。

 胸の奥底から湧いてくる感動が紘子を支配する。
 いや、それは「感動」などというありきたりな言葉で片付けられるようなものではない。
 何もかもを覆してしまいそうな嵐に似たもの、感情の爆発とでも言うべきだろうか。
 高鳴る鼓動に息を詰めた紘子の顔を見て、重之介の唇が小刻みに震えた。
「ひろ……お前、泣いてるのか?」
 零れた一言に、紘子ははっとして顔を手で押さえる。
 確かに濡れていた。
「嫌だ、どうしたのでしょうか……」
 紘子自身も、涙の理由を説明出来ない。
 ただ、辛く悲しい時に流れるそれとは違う、清浄でどこか心地良いものである事だけは自覚出来た。
 一方、重之介の方は初めて見る紘子の涙に茫然とする。
(駄目だ……言葉が出ない)
 誰を前にしても口ごもる事などなく会話を弾ませられる程度の社交性は自分にある、重之介はそう思ってきた。
 相手がどう出ようと常に上手く切り返す術は心得ているつもりだった。
 だというのに、紘子が相手だと時折とんでもなく不器用になる自分がここにいる。
(おなごに泣かれるのも苦手だが、これは恐らく、違う……)
 紘子の涙が、そしてそれを拭う様が、どうにも美しく見えた。
(泣かれちゃ困るというのに、見ていたいと思うなど……俺は馬鹿か)
 己が分からなくなりそうな状態の重之介は、更に自身でも驚くような行動に出る。
 「ひろ……」
 と名を呼んだかと思うと、無意識のうちに紘子の頬に手を伸ばしたのだ。
 ただ「触れたい」と、その一念で。
 そして、その指先があと少しで紘子の頬に掠ろうとした時。
「お侍さん、出来やしたよー」
 と店主の声が店表の方から響く。
 重之介ははっと手を下ろし、
「……美味い飯が待ってる。行こうか」
 と紘子を促したが、その心の内では上手く片付けられない感情を持て余していた。
(全く、とんだところで……だが、これで良かったのかもしれないな……危うく歯止めが掛からなくなりそうだった)
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