第44話 重実、走る・壱

文字数 1,863文字

 暮六ツ(日没少し前)、東町長屋。
 重実は例の如く「重之介」の出で立ちで訪れたが、どうにもいつもと雰囲気が違うような気がしてならない。
 通常、日の暮れかかっているこの時分は職人たちも仕事を引き上げ長屋に戻り、どこの部屋も夕餉で賑やかになる筈だ。
 しかし……。
(何だこの静けさは……)
 普段は夕餉の合間に聞こえる笑い声が戸口から漏れ聞こえるものだが、まるでしない。
 皆ひっそりと夕餉を済ませ寝に入ろうとしているようだ。
 それだけではない。
 当の紘子の住まいにも、灯りの灯っている様子がないのだ。
「ひろ、いるか?」
 中からは反応がないものの、重実は紘子の部屋の戸に手を掛けた。
 戸は何の抵抗もなく開く。
(突っ支い棒も立てずに不用心だな……って、おい……)
 重実はすぐに異変に気付いた。
 灯りが灯っていないばかりか、夕餉をこしらえた形跡もなければ、紘子本人の姿もない。
 何より、紘子には「夕刻になれば暇が出来る」と今朝告げている。
(ひろは何の理由もなしに俺との約束を反故にするやつじゃない……)
「……何があった?」

 重実はくるりと振り返り、向かいの部屋の戸を叩いた。
「夕餉の時分にすまん、たのもう」
 お向かいの住人が戸を開ける。
「おや? どっかで見た顔だね。よく来るお侍様……じゃあないか。似ているけれど……」
(……従重の事だな。まぁ、兄弟だから似ているのは否めないが、あの野郎、ふらついてるかと思えばやはりひろの所に来ていたか)
 従重の事を頭の隅に追いやりつつ、重実は笑みを浮かべ向かいの住人に話し掛けた。
「へぇ、どこぞのお侍様に似てるなんて言われるのは初めてだ。この通りしがない浪人なもんでね、お侍様なんてのに似てると言われる事はなくてさ。俺は蕎麦屋のあづまで紘子さんと顔馴染みになってね、あづまの女将に言伝を頼まれて来てみたんだが……なぁ、何だか妙な空気じゃないか?皆やけに静かで。これじゃまるでお通夜だ」
 すると、住人は声を潜めながら答える。
「紘子さんね、何やら良くない連中に拐かされたかもしれんのよ」
(……何!?)
 住人の言葉にぶわっと全身の毛が逆立つような感覚がしたものの、重実はそれを悟られないよう住人に調子を合わせた。
「そりゃ一大事じゃないか」
「そうなんだよ。よく見かけるお侍様も血相変えてこの辺り捜し回ってたみたいだけれど、とんと見つからず。そのお侍様をね、うちの旦那がお堀の橋の上で仕事上がりに見かけたらしいんだけど、羽振りの良さそうな商人と深刻な顔して話し込んでたんだって。その時に、二人からちらりと浪人がどうのこうのって聞こえてきたって旦那が言うから、変な浪人に出くわそうもんならあたしたちもどうなるか分からんて事で皆長屋の中に引っ込んでるのさ。全く、恐ろしいご時世になったもんだよ」
 恐ろしさ半分、噂好き半分といったところだろうか、お向かいの住人はえらく饒舌だ。
(嘘はなさそうだが……従重の話し相手が誰か、気になるな)
 重実は妙な虫が騒ぐ予感に駆られながらも、
「へぇ……そいつは大変だ。女将にはあなたに聞いたまんまを伝えるしかないなぁ。かたじけないね」
 と作り物の微笑を浮かべて礼を言い、長屋を出た。

 長屋を出た足で、重実は急ぎ城に引き返す。
(考えたくはないが、昨晩の賊が旧朝永藩の連中だとしたら……もしもそうならば、昼夜を問わずひろだけを狙うだろうな……)
「俺とした事が、考えが甘かったか」
 重実の中に、この後紘子が辿るであろう残酷な運命が順に描き出された。
 小藩とはいえその主として藩政を担うからこそ、相手の手の内も読める。
(恐らく裁きは旧朝永の領内で行われる。取り潰された今は、近隣の雄藩が旧朝永領を治めている筈。雄藩なら下手な裁きはしないだろうが、「近所のよしみ」なんて事もあるからな……ましてや勝徳の話だと、吉住とかいう元家老は地元じゃ「家臣の鑑」、奉行が朝永側になびく恐れは十二分にある)
 重実は指を折り折り数えた。
(ここから信州方面まで十日と掛からんだろう、それから奉行が調べをして白洲で裁くのにどれ程かかる? 旧朝永の連中の目的は一刻も早く紘子を藩主殺しの下手人として処刑する事、他所から詮索される前にさっさと片付けたい筈だ。そうなると、下手をすれば五日と経たぬ内に沙汰を下されるぞ……それから刑に処すとなると……)
「猶予は、あって半月か……」
 その面に苛立ちを露わにしながら、重実は城に走った。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み