第16話 解雇と絵巻物

文字数 3,802文字

 重之介と茶屋に出掛けてから数日。
 体調の戻った紘子は西日を背負いながら木戸屋へと向かっていた。
(元気になった事だし、きちんとお詫びとお礼をして、また今日からしっかり働こう)
 裏木戸を開け洗い場に顔を出し、女将の初江がいるであろう本館に足を踏み入れるが、道中の働き手たちの視線に妙な不自然さを覚える。
(皆さん、どうしたのだろうか。何だかよそよそしい気がするけれど……)
 首を傾げつつも、紘子は勘定場に顔を出した。
 案の定、そこには初江がいる。
「女将さん、紘子です。先だってはご迷惑を……」
 だが、紘子の詫びを遮り、初江は彼女を勘定場から追い出すと、
「いいからこっちに来な!」
 と、強引に洗い場の方まで引っ張っていった。

 本館と洗い場を繋ぐ廊下に出ると、初江は紘子の手を振り払い、腕組みしながら彼女を睨視する。
「あんたには暇を出した筈だよ」
 剣呑に告げる初江に、紘子は愕然とした。
「そんなっ、あれは体が良くなるまでというお約束ではなかったですか!」
「だけどねぇ、その間に色々事情が変わったとなれば話は別だろう。あんたが抜けて足りなくなった人手を補うのに、こっちは別の人を雇ったんだよ。で、そいつの方が愛想も良くてね」
 愛想の良さを切り出されると弱い、その自覚は紘子にもある。
 しかし、ここで引き下がっても新しい働き口が見つかる保証はどこにもない。
「私の働きぶりがお気に召さないのならばもっと頑張りますから、それだけはご勘弁を……」
 頭を深く下げる紘子の頭上から、半ばうんざりした調子の初江の声が降ってきた。
「ねぇあんた、あの偉そうなお侍さんとどういう関係だい?」
 従重の事だと察した紘子は、顔を上げて正直に答える。
「関係も何も、あのお方はお客様でしかございません。お目に掛かったのもたったの二度しかございませんし。先日も『興を削がれた』と仰った件についてお詫びしましたが、覚えていないと仰せになって、その後はお酒を楽しまれてお帰りに……」
 すると、初江は忌々しげに返した。
「あんたが休んだその晩、またそのお侍さんが来たんだよ。あんたを出せって言われてこっちも困ってねぇ、代わりに仲居を一人付けたけど、まぁ態度が酷いの何のって。酔って散々悪態を吐いた挙げ句、仲居を泣かせて帰っちまった。それから二日くらいしてまた来たけどね、その時はもうあんたが暇を申し出たからここを辞めさせたと吹いてみたのさ。そしたらまぁ辛気臭い顔をしてねぇ、あれには後で皆大笑いさ」
 紘子の眼差しに非難の色が微かに浮かぶ。
「そんな……それはあんまりではないですかっ。あのお方は……」
 「きっと何かお寂しいものをお抱えなだけなのです」と言いそうになるのを、紘子は堪えた。
 これまで幾度となく従重に振り回されてきた初江がそんな不確かな理由で寛容になれる筈もないと察したからだ。
 案の定、初江は刺々しい口調で続ける。
「今までは上客だからと我慢してたけど、ちょうどその頃から出入りし始めた新客のお侍さんが羽振りの良い方でね、いつも二、三人のお連れさんとご一緒なんだよ。しかもお武家さんにしては物腰も柔らかくて、仲居たちも喜んでてねぇ。そっちの方が遥かにお金を落としてくれるからね、あんな嫌なお侍さんはあんた諸共うちと縁が切れた方が大助かりなのさ!」
 ここまで言われると、さすがの紘子も絶句した。
(このご様子だと、どんなにお願いしたところでもう私の居場所はなさそうだ……)
 紘子は唇を噛みしめ、再びお辞儀をする。
「……お世話に、なりました」

 きいぃ……と物悲しい音を立てながら裏木戸を開け、紘子は木戸屋の外に出た。
 外はすっかり夜の帳が降り、提灯の灯があちらこちらの店先を照らしている。
 普段は遅くまで洗い物をして明け方近くに帰る紘子にとっては慣れない光景だ。
 普段とは違う外の景色と、つい今しがた我が身に降りかかった事……何もかもが信じ難く、居心地が悪い。
(明日から、仕事を探さないと……)
 重苦しい溜め息を吐いて歩を進めてすぐ。
「紘子か?」
 名を呼ばれ、紘子ははっとして立ち止まる。
 路傍の薄暗がりから
「やはり紘子ではないか。お前、一体この時分に何を……」
 と言いながら歩み寄ってきたのは、風呂敷包みを片手に持つ従重だった。
 従重は浮かぬ顔の紘子を見下ろしてすぐ、
「……木戸屋を辞めたのは真であったか」
 と渋い顔をする。
「しかし、何故だ?あれ程銭を稼がねばと申していたお前が、何故……」
「私の働きぶりがよろしくなかったようです」
 紘子は俯いたまま答えた。
「嘘を吐くならもう少しまともに吐け。だからお前は損をするのだ。お前に限ってそのような事があるわけがなかろう。おのれあの女将、商人の分際で調子に乗りおって」
 木戸屋に踏み込まん勢いの従重の着物の袖を、紘子は咄嗟に掴む。
「どうかご勘弁をっ。仮に戻る事が出来たとしても、私に居場所はございません。新たな働き口を探せば良い事でございますから……」
 袖から小刻みな震えが伝わってきた。
(そうまでして俺を止めるか。それでは益々俺が木戸屋に行っては拙い事情があると暴露しているようなものではないか……)
 従重は悔しげに鼻から息を出す。
「……お前に免じて、ここは引こう」
 紘子はほっとした様子で従重の袖から手を放した。
「だが、この時分の町をおなごが一人で歩くのは感心出来ん。紘子、帰るのならば送ってやる。お前の住む長屋はそっちの東町長屋で相違ないか?」
 安堵したのも束の間、紘子は慌てて手を振る。
「いいえっ、従重様のようなお方にそこまでして頂くわけには……」
 しかし相手は従重だ、木戸屋での振る舞いからして己の意志が至上である彼が生半可な拒否に従う筈もない。
「黙れ。俺が送ると言っているのだ、さっさと答えろ。案ずるな、お前とまぐわうつもりなどない」
「まぐわ……っ」
 あまりに露骨な物言いに、紘子は返す言葉を失ってしまった。
 恥ずかしそうに顔を赤らめ視線を逸らす紘子に口元を歪ませながら、従重は追い打ちを掛ける。
「早う申せ」
 窮まった様子の紘子は、躊躇いがちに
「……はい、東町(あずまちょう)長屋でございます」
 と答えた。
「分かった」
 従重は紘子の前を歩き出す。

 四半刻ほど歩いただろうか、従重は道中迷う事なく東町長屋に辿り着いた。
 城下の地理を良く心得ている辺りからして、藩主の弟という身分でありながら日頃頻繁に出歩いているであろう事が容易に想像出来る。
「今日は本当にありがとうございました」
 紘子は長屋と表を隔てる扉の前で従重に頭を下げた。
「構わん。それより紘子……」
 従重は紘子が顔を上げるのを待って、持っていた風呂敷包みを差し出す。
「これは……?」
 小首を傾げる紘子に、従重は
「お前にくれてやる。好きにしろ」
 と包みを押し付けた。
 手に持った感触からして、長い筒状の物が3本程入っているのが分かる。
(好きにしろと仰るという事は……反物?でも、従重様がそんな物を私に下さる理由が分からない)
「気になるなら開けてみれば良いだろう」
 戸惑いを隠せぬ紘子に、従重はじれったそうにそう言い放った。
「失礼いたします……」
 紘子は腕に包みを抱えたまま慎重に風呂敷の結びを解く。
 上等な生地の端がはらりと滑り落ちると、反物ではなく巻物が顔を出した。
 既に暗く、近所の障子越しに漏れる行燈の灯だけが視界を助けるだけだが、それでも上質な紙で出来た巻物だという事が見て取れる。
「俺が幼い頃に手習いの手本としていた絵巻物だ。所々に墨がはねてはいるが、まだ見られる程度には綺麗だ。いくら物語を諳んじていると言うても、町人の子に手本もなしに読み書きを教えるのは難儀であろう。まぁ、職を失った今はそれを売って当座の足しにしても良いが」
 大名家の子が読み書きを学ぶ際に使った絵巻物となれば、その中身もさぞ立派に違いない。
 町人の子は喜ぶであろうし、確かに売ればそれなりの金にもなろう。
「そんな大層な物を頂く理由がございませんっ」
 紘子は吃驚したが……。
「敦盛最期の礼だ」
 そうぽつりと返す従重の面がひどく優しげである事に、紘子は二度驚く。
(従重様のこのようなお顔は、初めて見た……)
「そんな……勿体のうございます」
「……ならば、いずれまた聞かせよ。その先払いも含めてという事であれば、納得するであろう。俺がここまで言うておるのに返すは無礼ぞ、紘子」
 丁重に断るという選択肢を失い受け取るより他ない紘子だったが、その顔にはもう困惑の色はなかった。
 紘子は風呂敷ごと絵巻物をぎゅっと胸に抱く。
「喜んで頂戴いたします。従重様、ありがとうございます……」
 自らの寝食を惜しんで子らに学問を教える程に自らもまた勉学を好む紘子にとって、従重がくれた絵巻物はまさに宝だ。
 瞼まできつく閉じ、感無量といった様子で礼を言う紘子に、従重は
「どうせ城にあっても蔵の肥やしとなるだけのがらくただ、お前の手に渡った方がまだましだろう。もう木戸屋で会う事はないであろうからな、先払いの件は昼間に長屋で聞かせよ」
 と言い残し、踵を返した。
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