第47話 絡みつく蛇

文字数 2,845文字

 時は、重実が江戸に向けて馬を走らせ出した頃に遡る。

 東町の隣町である相生町では、大久保によって宿の一室に従重が通されていた。
 従重の前には、長い髪を後ろに流し背中に垂らした初老の男が座っている。
 男は豪奢とまではいかないが織りの良い生地の羽織を身に付け、品のある笑みを浮かべて従重を迎え入れた。
 だが、その双眸は切れ味鋭い刀のように研ぎ澄まされた眼光を宿しており、従重はなかなか言葉を吐けずにいる。
(この男が、大久保殿の上役というわけか……商人はまずこのような目つきはすまい。一体何者だ……?)
 畏怖と猜疑の目で男を見つめる従重にまずは大久保が口を開いた。
「お旗本様、こちらが先程お話ししたお方で――由井正雪(ゆい しょうせつ)先生にございます。先生は軍学に秀で、ご公儀から仕官の話を頂くほどの方であらせられますが、それを断って多くの浪人たちを門下に引き入れ救済しようとなさっております。その数ゆうに三千」
「三千……!?」
 瞠目する従重に、由井正雪と紹介された男が苦笑しながら返す。
「大久保君の言う事は確かに真ではあるが、そう大層なものではない。それよりも、そちらの用件をお伺いしようか」
 従重は躊躇いがちに視線を彷徨わせた後、深く頭を下げた。
「私の知り合いが、浪人に拐かされたやもしれぬのです。先生のお力でその者の行方の手かがりを掴みたく、こうして参りました」
「成程……確かに私は多くの浪人と馴染みがある。方々に声を掛け、それらしき者に心当たりがないか確かめる事は出来よう」
 頷く正雪を尻目に、大久保は従重にすり寄る。
「お旗本様、正雪先生は浪人救済のために大仕事をされるお方。今宵、大層ご多忙のところ無理を申しおいで頂きました。お知り合いを一刻も早く見つけられるためにも、ここはひとつ、相応の誠意をご覧に入れた方がよろしいかと……」
「誠意……ですか」
 大久保の目が仄暗い剣呑さを覗かせた。
「恐れながら、貴方様の事は調べさせて頂きましたよ――清平従重様」
「なっ……」
 予想だにしなかった大久保の言動に従重は絶句した。
「ご内密に頂きたいお話ですが……正雪先生は、日ノ本の浪人をあまねく救済するためご公儀に反旗を翻そうとしていらっしゃいます。従重様には、その軍資金を少しばかりお恵み頂きたいのです」
(こいつの言っていた「商いに金が足りない」とは、そういう事だったのか!)
 従重は苦々しく唇を噛む。
(峰澤藩主の弟が、ご公儀への謀反の片棒を担ぐような事をするわけにいかぬだろう!)
「大久保殿、それは……」
「ならば、お知り合いを捜す件は諦めるのですな」
 断りを入れようとした従重に、大久保の一言が刺さった。
 返す言葉のない従重に、大久保は更に畳み掛ける。
「聡明な貴方様ならば、この場は上手く切り抜けて藩主様に密告するという方法も既にお考えでしょう。ですが、正雪先生も私も本気なのです。仮に縛に就き調べを受けた際には、貴方様のお名前も貴方様との関わりも洗いざらい口に出しましょう。譜代の大名であろうと疑わしい行いをすれば容赦なく改易するご公儀の事です、必ずや清平のお家を取り潰すでしょうな」
(こいつは、蛇か……絡みついたかと思えば締め上げる蛇と同じだ……俺は、まんまとはめられたというのか……)
 「蛇の毒」が回り始めているのだろうか、従重の思考は停止していた。
(紘子……)
 それでも、紘子の無事を、生還を願う想いだけははっきりとしている。
「……明日、城の蓄えを少々拝借してくると約束しよう。故に、どうか私の知り合いを捜して頂きたい」
 絞り出すような声で願い出る従重に、正雪は朗々と問い掛けた。
「では、その者について子細伺おう」

 相生町から城下の東町に戻る頃には、既に夜は更け月は西に傾きかけていた。
 視点の定まらぬ様子で、従重は城に向かってとぼとぼと歩く。
「紘子……兄上……」
 口を開けば、出てくるのは紘子の名と兄を呼ぶ声ばかり。
 ほんの一年先に生まれたというだけで何不自由なく全てを手に入れている兄など、どうなっても構わない……もう随分と前からそう思ってきた筈だった。
 紘子の事も決して譲らないと、そのためであれば兄弟の縁を切るのも厭わないと、そう思っていた筈だった。
 だというのに心の底から兄を憎む事が出来ない。
 ここに来て、こんな状況になって、従重は初めてそれを自覚している。

 紘子を助けたいばかりに重実を貶めるはめになろうとは、従重は考えもしなかった。
 だが、何としても紘子を救いたい、その気持ちに嘘を吐く事も出来ない。
 無意識のうちに、彼は長屋の扉をくぐっていた。
(そういえば……)
 従重はふと、長屋の最奥に小さな祠がある事を思い出す。
 何度となく長屋に足を運んでいた彼は、住人たちが交代で祠の掃除をしてお供えを取り替えている光景を目にしたことがあった。
 まるで吸い寄せられるように従重は祠に歩み寄り、しゃがみ込む。
(この俺が神頼みなど、母上が病に伏した時以来だな……)

 まだあどけなさの残る少年だった頃に、母は倒れた。
 従重は代々の菩提寺に足繁く通い、仏像に手を合わせ母の快癒を願った。
 だが、母が起き上がる事は二度となかった。

(神も仏もあったものではないと、あれ以来神仏に頼る事など決してなかったのだが……)
「だが、俺にはもう、こうするしか思いつかん……」
 手を合わせ、紘子の無事を祈る。
 どれ程そうしていただろうか、従重は閉じていた瞼を開けて顔を上げた。
 そして、祠の扉が片方だけ開きかけている事に気付く。
(何だ、祠にガタが来ているのか?)
 閉め直そうと手を伸ばした時、触れた拍子に祠の中から何やら細長い物が雪崩れるように落ちてきた。
「っ!?」
 従重は咄嗟にそれを受け止め、愕然とする。
 月明かりに照らされたそれは、椿の紋を刻んだ懐剣だった。
(何故、清平家の家紋の入った懐剣が斯様な所に……?)
 懐剣に導かれるかのように従重は祠の扉を両方に開く。
 すると、中には白い紙に包まれた書状のようなものも入っていた。
 手に取ると、裏側に句が書かれている。

 三ツ半に 狂い椿を 食ふやもり 知らぬ逢瀬よ 椿落つとも 

 月明かりに照らしながらその字を目で追う従重の唇が小刻みに震えた。
「ひ……紘子……」
 紘子の筆跡は何度も長屋で見てきた。
 月明かりの下に浮かび上がったそれは、まさに見慣れた彼女の字だ。
 そして、その字が綴る句の真意までは分からぬものの何となく紘子の覚悟めいたものが秘められているような気がして、従重は苦しげに顔を歪ませる。
(紘子、お前は何を伝えたいのだ……?)
 従重は紘子が句をしたためた書状と清平家の家紋が入った懐剣を懐に大切にしまうと、早足で城に帰った。
 時折、紘子の句を口にしてはその意を探りながら。
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