第64話 淋しき安穏

文字数 3,152文字

 ――峰澤城。
(そうか、紘子は一命を取り留めたか。良かった、真に良かった……)
 藩主名代の従重は長い息を吐きながら兄・重実からの文を閉じた。
 文には、いずれは紘子を彼女の乳母と共に城に入れる事や、まだ傷の癒えぬ紘子に先んじて重実がじきに城に戻る旨も記されている。
 そして……。
(「お前には感謝してもしきれぬ」……か。兄上から斯様な言葉を貰うなど、初めてではなかろうか)
 文面を思い出し、従重は微笑を洩らした。
 離縁状を見つけ勝徳に持たせた従重は、いわば紘子の濡れ衣を晴らした立役者とも言える。
 重実はその事を素直に感謝していたのだ。
 とはいえ、従重の中には如何ともし難い淋しさが募る。
(お前に幸いをもたらす男が俺であれば良かったのにと……そう思うのは罪であろうか?)
 元々繊細で勘の鋭い従重だ、紘子の心が何処に向いているかも、そこに己がいない事も、既に自覚していた。
(それでも、せめてお前の幸多き生を願うは許せ。お前は、お前だけは、俺の為す事にいつも礼を言うてくれた。傷を負うた時も俺に何も返せぬと泣いてくれた。お前だけは、いつも俺の存在を認めてくれた……)
「この手でお前を守る事が叶わぬならば、せめてお前の幸いだけは守らせてくれ……」
 従重は冴え冴えと青い空を見上げながら独白する。
 紘子の一件を通じ、兄弟の間で何かが変わろうとしていた……。

 その頃、松代藩城代家老屋敷の離れでは、旅支度を整えた重実が紘子と暫しの別れを惜しんでいた。

 奉行所で生死の境を彷徨ってから数日後、「罪人の裁きをするような場にいては養生出来ないだろう」という城代家老の計らいで、紘子は離れの空き部屋を貸してもらえる事になった。
 しかし、紘子は怪我と咳や胸痛に苦しみ、自力で移動など出来たものではなく、「引っ越し」の際は重実が背負った。
 それだけではない。
 重実は湯浴みか厠か買い物以外は四六時中紘子の傍から離れず、一国の主とは到底思えぬ世話焼きぶりを見せていた。
 現代風に言うならば、過保護も甚だしいところである。

「いいか? 今度俺が迎えに来るまでもう少し肥えておけよ? ここまで背負った時、あまりにお前が軽過ぎて俺はもう切なくて切なくて。それと、俺がいなくてもちゃんと薬を飲むんだぞ? それから、厠に立つときは決して一人になるなよ? 転んだら一大事だからな。それから……」
「お殿様、姫様にはこのイネが付いております故、どうぞご安心召されませ」
「わ、分かっている……」
 イネに遮られ、重実は気まずそうに俯いた。
 そんなやり取りを、紘子は横になりながら微笑ましく眺め、
「重実様のお顔が見られなくなるのは、淋しいです」
 と口に出す。
「……っ」
(こいつ、俺の気を知ってそんな事を言ってるのか? 全く……)
 上気していく顔を誤魔化そうとしかめっ面をしてみても頬の熱は上がるばかりで、重実は困り果てて紘子から視線を逸らした。
「イネ、すまんが暫しひろと二人にしてはもらえんか?」
 イネはぱぁっと笑顔を咲かせながら、
「はい、喜んで」
 とそそくさと部屋を出ていく。
 イネの足音が遠ざかったところで、重実は腕を軽く広げた。
 すると、紘子ははにかみながら両腕を上げ、重実の首に伸ばす。
 紘子の腕が差し出した首の後ろで絡まると、重実は紘子の背に腕を回して軽々と抱き起こし、膝の上に座らせた。
「背中、痛むか?」
 耳の近くの音ならば殆ど聞き取れるようになっている紘子は、
「……少し」
 と返しながら重実の肩に顔を埋めて隠す。
 それに重実はふっと笑い声を漏らした。
「何だよ、こうするのにまだ慣れないのか?」
「な……慣れるも何も……」
(こいつ、耳まで真っ赤にして……可愛らしい奴だな)
 重実は、少し意地悪をしてみたくなる。
「参ったな、この程度で恥じらいでいるようだと、この先が思いやられる」
「……っ」
 紘子の顔がますます埋まっていった。
「俺はもう峰澤に発つんだぞ? 顔、見せてくれよ」
(重実様は、私をからかっているのだ……)
 そう分かっているのに、どうにも逆らえない。
 重実の肩からそっと顔を離して見せるが、視線ばかりは合わせられず、つい俯きがちになる。
(ああ……俺とした事が、下手を打った……)
 恥じらって落ち着かない様子の紘子がまたどうにも可愛らしく、余計に手放せなくなった重実は己の言動を呪った。
(どうも、俺はこいつの前では器用に立ち回れん……)
 惚れた弱みは諦めるより他ない。
 紘子を抱き寄せ、今度は重実が彼女の細い首筋に顔をくっつける。
「……淋しいのは俺の方だ。藩政は従重と忠三郎がいればどうとでもなる、出来るならばお前を連れ帰れるまでここにいたい。だが……俺は行かねばならん」
 儚げな響きさえ感じさせる呟きに、紘子は小さく頷いた。
「……吉住の裁き、ですね」

 近く吉住の裁きが開かれる事となった旨が親房によって文で知らされたのはつい一昨日の事だ。
 文によると、由井正雪を主犯とした公儀への謀反疑惑については既に調べが済み、その件だけで吉住には斬首が言い渡されているという。
 その刑の執行を前に、いよいよ旧朝永藩主殺害の調べと裁きが行われるのだ。

「まだ動けないお前の代わりに、俺がきっちり見届けてくる」
「はい……よろしくお願いいたします」
 淡々と返す紘子に、重実は微かなもどかしさを滲ませる。
「だが、真にいいのか? 奴に何も言わずとも。恨み言なら山のようにあるだろう? 預けてさえくれれば、俺が全部奴に叩き付けてくるというのに」
「……」
 まるで、何かを飲み込むような間が空いた後、紘子は小さくかぶりを振った。
「良いのです。何を申し上げたところで、父と母が生き返るわけではございませんから」
(そうか……お前の「言葉」、しかと聞き届けた)
 重実は一度目を閉じた後、
「相分かった」
 とだけ返事をして、指先で髪を梳くようにして紘子の頭を撫でる。
「お前をこうして撫でていると、不思議と心が凪ぐんだ。逆立った毛が静まるようにな」
「重実様……?」
「言っただろう? 俺は淋しいんだよ。お前の頭に暫く触れられんと思うとな。だから、もう少しだけ……いいだろう?」
(違う……)
 重実の言葉に、紘子はひとり小さな痛みを覚えた。
(淋しいなどという些末な理由ではない。私が死地から戻ってからというもの、重実様が私の頭に触れるのは決まってお心が乱れている時だ。この方は、こうする事で心を静めているのだ。以前からもしやと思う事はあったが……重実様は、とても聡明で肝の据わったお方である反面どこかひどく脆く危うい所がおありだ……。この体さえ満足に動くなら、今すぐにでも旅支度をして貴方様と共に行くというのに。お傍で貴方様の心をお支えしたいのに)
 紘子はそんな想いをぐっと堪えて精一杯の微笑みを見せる。
「どうぞ、お好きに」
(ああ、もう……何て顔見せやがる)

 白洲での裁きの後から、毎晩のように夢の中で刀を抜き吉住の首を斬った。
 血に染まった己の手が恐ろしくて、声を上げながら夜中に飛び起きた時もある。
 だが、本当に恐れていたのは夢の中の光景ではない。
 こうも他人に強烈な殺意を抱く自分自身に、重実は恐怖心を抱いていた。
 いつの日か怒りに我を忘れ、本当に吉住を斬り殺してしまうのではないかと。
 その度に、重実は何かに導かれるかのように紘子に触れた。
 夜中に熟睡している紘子の頭を指先で優しく撫でると、彼女は眠りながらも気持ちよさそうに頬を緩めた。
 その幸せそうな顔を見る事で、重実の心は均衡を保っていたのだろう。

(そんな顔を見せられたら、余計に別れが辛くなるじゃないか……)
 離れがたい想いと闘うのは骨が折れるものだ。
 重実は嘆息しながら困ったように紘子を見つめた。
「……お前には敵わん」
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