第21話 城に見る悪夢・壱
文字数 2,559文字
外はすっかり暗くなり、やがて雨も降り出した。
重実によって城に運び込まれた紘子は、藩医の処置で辛うじて一命を取り留めたものの、浅い呼吸を繰り返し時折うなされている状態で意識は戻っていない。
布団に横たわる紘子の傍で、胡座に頬杖という格好で重実は行燈の灯にぼんやりと浮かぶ紘子の顔をじっと見つめていた。
「何故 、こんな事になった……?」
ぽつりと零れた問いは、部屋の隅の暗がりに吸い込まれていく。
(言っただろう……深入りするなと)
後れて城に戻ってきた忠三郎から事の次第を聞いた重実は、何とも言えない無念さに駆られていた。
(もしも、俺が傍にいたなら間違いなくひろを止めていた。薄情だが、たきを早々に借金取りに差し出しただろう。博打の借金はある種の病だ。金を渡してその場を凌いだとしても、また借金を繰り返す。肩代わりも慰めも励ましも無意味、根本から解決したいのであれば、力ずくで賭場に行かせないようにするか本人に血反吐を吐くまで働いてもらうか、若しくは本当に大切なものを失って己の愚かさに気付いてもらうしかない。だが……)
「お前の性分じゃ、無理だろうな……」
そう独りごち、重実が寂しげな微笑みを浮かべた時。
「……ば……きて……後は……」
紘子が何やらうわごとを繰り始めた。
「ひろ?」
呼吸の合間に呟かれる声ではろくに聞き取れず、重実は彼女の口元まで耳を持っていく。
「弓矢を取る習い……敵の手にかかっ……て命を失う事、まったく恥にて……恥ならず……」
(何を言ってる?どこかで聞いたような一節だが……竹取物語にこんな物騒な文言はないよな?そうなると、軍記物……平家物語か……?)
首を傾げつつ耳を離し、紘子の顔をみた重実は思わず目を見開いた。
おかしなうわごとを呟きながら、紘子は閉じて伏せられた睫毛の先を濡らしているではないか。
涙がひと筋、目尻を伝って枕に落ちた。
かつて、一緒に富士の頂を見た時にも紘子は涙を見せた。
あの時は、それを大層美しいと重実は感じた。
しかし……。
(違う……これは、あの時のものとは違う)
もっと見ていたいと思った涙とは真逆の一滴。
重実には、それが「流させてはいけない涙」に感じられた。
(お前、今何を見てる……?何がお前をそんなに悲しそうに泣かせてるんだ……?)
たきを救えなかった自責の念だろうか……重実にはそれくらいしか考えられない。
紘子が夢の中でどんな光景を見ているかなど、想像しようにも出来ない。
(そうだ、俺はその程度しかまだこいつを知らないんだ……こいつが今どんな事を考えてるか、それすら察してやれない。だというのに……)
あの時とは全く違う思いで重実は紘子の目元に手を伸ばす。
(お前はもう、俺の中でどうしようもなく尊い存在になってやがる……)
「泣くなよ……お前を、そんな風に泣かせたくない……」
今度は確かに指先が濡れる感触を覚えた。
(皮肉なもんだ。思わず手を伸ばしたい程に美しかった涙には手が届かなかったのに、見ていられない涙には届くんだからな)
重実の指が目尻に優しく触れた事に気付いたのかは定かではないが、ひと呼吸の後紘子のうわごとは止まり、彼女は苦しげながらもどうにか寝入る。
「殿、よろしいですか……」
廊下に跪く男の影が障子に映った。
その声から相手が忠三郎であると察した重実は、紘子の涙を拭った手を引っ込めて、
「ああ」
とだけ返す。
静かに障子戸を開け部屋に入った忠三郎は、気遣わしげに紘子と重実を交互に見やった。
「……いよいよ、ごまかしは利かなくなりましたな。『清瀬重之介』などという浪人はこの世に居らぬ事、重之介という名で相対していた者の正体は峰澤藩主・清平重実様である事、このおなごが目を覚ましたらよもや隠し立ては出来ますまい」
「……そうだな。だが、それで終わる縁なら、所詮それまでの事だったというだけさ」
そう言いながら口元を歪ませる重実の笑みは、どこか自虐めいたものだった。
忠三郎は見かねて告げる。
「お妾という事であれば然程素性を問われることはございません。いっその事、そのようにして城に置かれては……」
「忠三郎」
忠三郎の言葉を遮る重実の声は、静かでありながらひどく重みを帯びていた。
「俺を思っての言には感謝する。だが、如何な理由であれ俺は絶対に妾や側室など作らない。俺の性分をよく知っているお前なら分かるだろう?」
忠三郎は切なげに俯く。
「璋慧院 様と同じ思いは、させたくないと……」
「母上がどれ程辛酸を舐めさせられたか……俺や従重という跡継ぎを産んだにもかかわらず、身分のせいで正室には入れず、挙げ句『成り上がりの側室』と揶揄されいらぬ気苦労を強いられた……母上は文句ひとつ仰らなかったがな。俺は未だに納得出来ない。ご正室が早くに亡くなられた後、この家を、父上を誰よりも支えられたのは母上だというのに……。俺は、好いたおなごにあんな苦労はさせたくない」
知らず知らずのうちに、重実の声は僅かに大きくなっていた。
忠三郎はただ小さく頷きを返す。
「……ならば、やはりこのおなごの素性を厳にお調べせねば」
「それならもう手は打ってある。勝徳に頼んだ」
重実は、いつぞや紘子を連れていった寺の住職・勝徳に紘子の素性を調べるよう依頼した事を忠三郎に告げた。
これには忠三郎も苦笑いを浮かべる。
「殿もお人が悪い」
「そう言うな。決まった人間しか出入りしない城より、老若男女が集まる寺の方が調べ事には向いているというだけだ。お前を蔑ろにしたわけじゃないさ」
「ええ、殿が私を蔑ろになどしない事、よく存じております……あっ」
苦笑していた忠三郎が思い出したように口を開けた。
「藩医の淳庵 殿が、殿にお伝えしたき事があると。私とした事が、すっかり忘れておりました」
忠三郎のうっかりに、重実も脱力した笑いを漏らす。
「ふっ、全くお前は……分かった。淳庵殿の所へ参ろう」
立ち上がって部屋を出る際、重実は目だけでちらりと紘子を振り返った。
(俺が正体を明かしたら……ひろ、お前の事も教えてくれ)
重実によって城に運び込まれた紘子は、藩医の処置で辛うじて一命を取り留めたものの、浅い呼吸を繰り返し時折うなされている状態で意識は戻っていない。
布団に横たわる紘子の傍で、胡座に頬杖という格好で重実は行燈の灯にぼんやりと浮かぶ紘子の顔をじっと見つめていた。
「
ぽつりと零れた問いは、部屋の隅の暗がりに吸い込まれていく。
(言っただろう……深入りするなと)
後れて城に戻ってきた忠三郎から事の次第を聞いた重実は、何とも言えない無念さに駆られていた。
(もしも、俺が傍にいたなら間違いなくひろを止めていた。薄情だが、たきを早々に借金取りに差し出しただろう。博打の借金はある種の病だ。金を渡してその場を凌いだとしても、また借金を繰り返す。肩代わりも慰めも励ましも無意味、根本から解決したいのであれば、力ずくで賭場に行かせないようにするか本人に血反吐を吐くまで働いてもらうか、若しくは本当に大切なものを失って己の愚かさに気付いてもらうしかない。だが……)
「お前の性分じゃ、無理だろうな……」
そう独りごち、重実が寂しげな微笑みを浮かべた時。
「……ば……きて……後は……」
紘子が何やらうわごとを繰り始めた。
「ひろ?」
呼吸の合間に呟かれる声ではろくに聞き取れず、重実は彼女の口元まで耳を持っていく。
「弓矢を取る習い……敵の手にかかっ……て命を失う事、まったく恥にて……恥ならず……」
(何を言ってる?どこかで聞いたような一節だが……竹取物語にこんな物騒な文言はないよな?そうなると、軍記物……平家物語か……?)
首を傾げつつ耳を離し、紘子の顔をみた重実は思わず目を見開いた。
おかしなうわごとを呟きながら、紘子は閉じて伏せられた睫毛の先を濡らしているではないか。
涙がひと筋、目尻を伝って枕に落ちた。
かつて、一緒に富士の頂を見た時にも紘子は涙を見せた。
あの時は、それを大層美しいと重実は感じた。
しかし……。
(違う……これは、あの時のものとは違う)
もっと見ていたいと思った涙とは真逆の一滴。
重実には、それが「流させてはいけない涙」に感じられた。
(お前、今何を見てる……?何がお前をそんなに悲しそうに泣かせてるんだ……?)
たきを救えなかった自責の念だろうか……重実にはそれくらいしか考えられない。
紘子が夢の中でどんな光景を見ているかなど、想像しようにも出来ない。
(そうだ、俺はその程度しかまだこいつを知らないんだ……こいつが今どんな事を考えてるか、それすら察してやれない。だというのに……)
あの時とは全く違う思いで重実は紘子の目元に手を伸ばす。
(お前はもう、俺の中でどうしようもなく尊い存在になってやがる……)
「泣くなよ……お前を、そんな風に泣かせたくない……」
今度は確かに指先が濡れる感触を覚えた。
(皮肉なもんだ。思わず手を伸ばしたい程に美しかった涙には手が届かなかったのに、見ていられない涙には届くんだからな)
重実の指が目尻に優しく触れた事に気付いたのかは定かではないが、ひと呼吸の後紘子のうわごとは止まり、彼女は苦しげながらもどうにか寝入る。
「殿、よろしいですか……」
廊下に跪く男の影が障子に映った。
その声から相手が忠三郎であると察した重実は、紘子の涙を拭った手を引っ込めて、
「ああ」
とだけ返す。
静かに障子戸を開け部屋に入った忠三郎は、気遣わしげに紘子と重実を交互に見やった。
「……いよいよ、ごまかしは利かなくなりましたな。『清瀬重之介』などという浪人はこの世に居らぬ事、重之介という名で相対していた者の正体は峰澤藩主・清平重実様である事、このおなごが目を覚ましたらよもや隠し立ては出来ますまい」
「……そうだな。だが、それで終わる縁なら、所詮それまでの事だったというだけさ」
そう言いながら口元を歪ませる重実の笑みは、どこか自虐めいたものだった。
忠三郎は見かねて告げる。
「お妾という事であれば然程素性を問われることはございません。いっその事、そのようにして城に置かれては……」
「忠三郎」
忠三郎の言葉を遮る重実の声は、静かでありながらひどく重みを帯びていた。
「俺を思っての言には感謝する。だが、如何な理由であれ俺は絶対に妾や側室など作らない。俺の性分をよく知っているお前なら分かるだろう?」
忠三郎は切なげに俯く。
「
「母上がどれ程辛酸を舐めさせられたか……俺や従重という跡継ぎを産んだにもかかわらず、身分のせいで正室には入れず、挙げ句『成り上がりの側室』と揶揄されいらぬ気苦労を強いられた……母上は文句ひとつ仰らなかったがな。俺は未だに納得出来ない。ご正室が早くに亡くなられた後、この家を、父上を誰よりも支えられたのは母上だというのに……。俺は、好いたおなごにあんな苦労はさせたくない」
知らず知らずのうちに、重実の声は僅かに大きくなっていた。
忠三郎はただ小さく頷きを返す。
「……ならば、やはりこのおなごの素性を厳にお調べせねば」
「それならもう手は打ってある。勝徳に頼んだ」
重実は、いつぞや紘子を連れていった寺の住職・勝徳に紘子の素性を調べるよう依頼した事を忠三郎に告げた。
これには忠三郎も苦笑いを浮かべる。
「殿もお人が悪い」
「そう言うな。決まった人間しか出入りしない城より、老若男女が集まる寺の方が調べ事には向いているというだけだ。お前を蔑ろにしたわけじゃないさ」
「ええ、殿が私を蔑ろになどしない事、よく存じております……あっ」
苦笑していた忠三郎が思い出したように口を開けた。
「藩医の
忠三郎のうっかりに、重実も脱力した笑いを漏らす。
「ふっ、全くお前は……分かった。淳庵殿の所へ参ろう」
立ち上がって部屋を出る際、重実は目だけでちらりと紘子を振り返った。
(俺が正体を明かしたら……ひろ、お前の事も教えてくれ)