第90話 背中の温もり

文字数 3,787文字

 一夜明け、一行は目前に迫った峰澤を目指す。
 信州を発ってひと月近くの間に、江戸近隣の秋も深まりつつあった。
「ひろ、お前の手は冷たいな。どこか悪くしてないか?」
「どこか悪いように見えますか?」
「……見えん」
「でしょう? ご心配には及びません」
 枇杷丸の上で紘子の手を取り顔を覗き込む重実と、気恥ずかしそうにしながらも一言返す紘子をちらちらと見ながら、北脇兄弟はひそひそと耳打ちしあう。
「兄上、私の気のせいでしょうか……お二人の様子が昨日までとは違う気がするのですが……」
「……」
 弟小平次の問いかけに、兄三木助は答えに窮し不審に目を泳がせるばかりだ。
(小平次め、何ということを私に問うのだ……)
 お年頃もとい聡い三木助は、何となく……そう、何となく察していた。
(これまでは前のめりな殿に対して紘子殿がやや戸惑いを見せることが多かったが、今朝から紘子殿にはそうした様子は見られぬ……というより、むしろ紘子殿もさりげなく殿との距離を縮めているようにも見える。何より殿に不可解な余裕が溢れているではないか。ああ、この変わりようはあれに似ている……枇杷丸が飼い葉欲しさにヒンヒン鳴いていたかと思いきや、己の前の桶にこんもりと盛られた途端悠然と飼い葉を食う、あの光景に似ている。男女の間柄がそういう風に見えるようになるということは、つまり、その……そういうことであろう?)
 「弟よ、あのお二人は昨夜(ゆうべ)一晩中睦み合っていたのだ」とでもぶちまけてしまえばいっそ楽なのかもしれないが、次期国家老にそんな蛮行が出来る筈もない。
(頼む小平次、察してくれ……私にはとても恥ずかしくて口には出来ん)
 だが、三木助のそんな願いも虚しく、小平次は構わず続けた。
「あの……上手く申せませんが、お二人の距離が近うございませんか? いや、これまでもだいぶ近かったとは思いますが……何と言いますか、これまでは殿が一方的に近付いていて紘子殿は遠慮がちだったように見えておったのが、今朝からは紘子殿も殿に歩み寄っておられるような……」
「……」
(それは今しがた私も考えておったことだ! それ以上申すな……私には上手い言葉が見つからん。そういえば、昨晩殿のお部屋からはやけに衣擦れの音が……そうか、あれは殿がやたら寝返りを打たれていたわけでなく……そ、そ、そういうことであったのか! 襖一枚というものはこうも容易く漏れ聞こえるものなのか。私も用心せねば……でなくっ! 殿も殿だ、私と小平次が襖一枚隔てた隣の間に寝ているというのに全く何たることを……。ああああ小平次の愚か者め! お前がおかしなことを訊くせいで私の頭の中は滅茶苦茶だ!!)
 相変わらず挙動不審な兄の答えなどやはり待たず、小平次は更に囁く。
「そういえば、朝餉の時からあのような感じでしたよね? 何でしょう、あのご様子……見ているこちらがそわそわしてしまいます」
「ならば見るでない」
 三木助は小平次の頭を掴んで無理やり紘子たちから背けさせた。
「痛い! いきなり何をするのですか兄上!」
「世の中には見ぬ方が、触れぬ方が良いこともあるのだ! 良いか小平次、それ以上あのお二人を見ていたら当てられるぞ……」
「はあ? 当てられる? 兄上何を仰って……」
「お前も私と同じ年頃になれば分かる!」
 三木助の顔は耳まで赤く染まっており、後ろを付いて歩くイネはとうとう耐えきれず吹き出す。
 更に、兄弟は馬上の主君に聞こえぬよう話していたつもりだが、所詮つもりでしかなく……。
「ひろ、お前は何も聞かん方がいい……」
 と紘子の両耳を掌で塞いだ……。

 そうして、やいのやいのと若人たちと婆一人は歩き続け、ちょうど堀にかかる西日が橋を橙に染め上げる頃、漆喰塀の小さな城の前に立った。
 既に枇杷丸は城下に入った時三木助に預け、三木助はその枇杷丸に乗っていち早く入城し今頃忠三郎や従重に帰参の報告を入れている筈だ。
(ここには、一度来た……「重之介様」になられていた重実様と)
 正確には重之介と来るよりも前にのぶの包丁が刺さった日に一度運び込まれているが、それは紘子の知るところではない。
 紘子は橋の手前で足を止め、かつて重実に手を引かれここに逃げてきた時のことを思い出す。
 あの時は無我夢中で橋を渡り藪の中を抜けて城の前に出たが、当時雨の降る闇夜でもぬうっと浮かび上がっていた白い壁は、今も変わらない。
 唯一違うのは、今目の前にそびえ立つそれが夕日を浴びて橙に染まっていることだけの筈だが……。
「姫様?」
 本人よりも先にイネの方が紘子の異変に気付く。
 表情だけは平静を装っているものの、紘子の顔面は蒼白で、微かに開いた口は浅く速い呼吸を繰り返していた。
 肌寒さを感じる外気にもかかわらず、額には汗が滲んでいる。
(困ったものですなぁ……峰澤のお城が、朝永のお城とこうもよく似ておられるとは)
 初めて峰澤の城を見たイネは、ただならぬ様子の紘子に強い胸騒ぎを覚えた。
(姫様は懸命にお心を保とうとされておられるが、あれほどの仕打ち、お身体が忘れる筈もない……)
「姫様、ご無理をされておいででは……」
 イネは少し前を歩く重実に聞こえないよう紘子を案ずるが、紘子は無理矢理に口元で笑みを作る。
「大事ない、イネ。ここには縁あって一度来ているのだ、あの時はどうにかなった。大事ない……大事ない……」
 己に言い聞かせるようにそう口にしたところで、紘子は己の両手が震えていることに初めて気付いた。
(ここは朝永ではないのだ。何を恐れている……落ち着け、落ち着け)
 懸命に手で手を握り震えを止めようとするが、一向に止まらない。
 更に、浅い呼吸のせいで指先が痺れ始め、滲んだ汗が雫となってこめかみを伝う。
 ただ一歩、一歩前に出て橋を渡り切れば良いだけなのに、足が竦んで動かない。
(何故だ、何故動かない? お願いだ、動いて、動け……っ)
 心はこんなにも前に行こうとしているのに、体はまるで言うことをきかない。
 耳の奥に怒声が響き、血の味と臭いが口の中に広がるような錯覚さえ覚え、紘子は喉をせり上がってくるものを堪えようと震える手で口を塞いだ。
 その拍子に、手からするりと抜け落ちた桐の杖が、からん……と音を立てて橋に転がり、重実がはっと振り向く。
「ひろ?」
 重実は、青ざめて震える紘子を見るなり彼女の両肩を掴み、顔を覗き込んだ。
(俺としたことが……ここには一度来ているからと油断した。そうだ、暗かったあの時と違って今は城の形も外面もはっきりと見える。嫌でも思い出すか……)
「今日は長屋に行くか? 前にも言ったが、お前の部屋は従重が店代を払って借りたままにしてある。帰っても問題はないんだぞ」
 重実は紘子を気遣いそう提案するが、紘子は首を横に振り震える手を落ちた杖に伸ばそうとする。
 その様を見た重実は言葉をなくした。
(ああ、そうか……俺は、こいつにこれ程までの覚悟を強いたのか……)
 一国一城の主である重実の妻になるということは、彼と城で共に暮らすということだ。
 そんなことは言わずもがなであったが、重実はそれが紘子にとってどれ程の苦痛になるかを甘く見ていた。
(分かっていたようで、俺は分かっちゃいなかった……成程、悔しいが従重の言う通りだな。だが、俺は従重じゃない。こいつは必死で前に進もうとしてる。でなければ長屋を断って杖を拾おうなどとするものか。今のこいつに、俺がしてやれることは――)
 重実は紘子に背を向けて屈む。
「ほら、おぶされ」
 暮れなずむ橋の上で目に飛び込んできた重実の背中に、紘子は既視感を覚えた。
 あれは、熱を出して木戸屋から暇を貰った帰りだったか。
(景色が、変わっていく……)
 瞠目とともに、浅く速くなっていた呼吸が一瞬止まる。
 紘子の瞼裏に貼り付き、振り払おうとしてもびくともしなかった曇天の空と朝永の城が、重之介と共に歩いた木戸屋からの帰り道に一気に塗り替わった。
 暖かな橙の光の中、温かな重之介の背中に感じた夢のような幸いがじんわりと紘子の胸の中に広がっていく。
「ほら、遠慮するな。それとも、嫌だってんなら横抱きにするぞ。そっちの方が余程恥ずかしいと思うがな」
(ああ、そうだ……あの時もそう仰って下さった……)
 視界の橙が、柔らかく滲み始めた。
(忘れていた……この方の妻になるということは、この方の温もりを、優しさを感じられるということだ。この方と共に幸いを紡いでいけるということだ……)
「ほら」
 からかうように促すところもあの日と同じで、紘子はいよいよ感極まる。
「うっ、ううぅ……」
 溢れる涙を拭うのも忘れ、紘子は嗚咽を零しながら重実の背中に身を預けた。
「苦しかったら、着くまで目を瞑ってろ。それから……いいか、ひろ、お前はもっと俺に甘えればいいんだ。可愛い妻のおねだりに振り回されるのも夫の醍醐味というものだからな」
 力強く踏み出される一歩一歩と重実のそんな言葉が余計に紘子の涙腺を刺激する。
「それなら、ずっと……ずっと重実様のお傍に居させて下さい……この幸いを、手放したくありません……」
(こいつは何故こう不意打ちを喰らわせてくるのか……!)
「……案ずるな、この先何があろうと俺がお前を手放すことはない」
 三木助以上に顔面を紅潮させた重実は、紘子を背に負い直し歩を進めながらそう囁いた。
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