第41話 火種・壱
文字数 4,617文字
「せっかく私が着け木を用意してやったというのに、お前たちは……」
東町の隣町、相生 町。
その一角に佇む安宿の一室で、吉住は連れの男たちを腹立たしげに睨んでいた。
「も、申し訳ございません。その、腕の立つ浪人が邪魔に入りまして……」
雨でずぶ濡れの男が土下座する。
吉住は片方の口元を引きながら思案した。
そして、ため息ひとつ吐いた後に告げる。
「お前たちが持ってこられないと言うのならば、私が直々に行くしかあるまい。私が上手い具合に火種を運んでくる様をよく見ておくのだな」
一方、峰澤城の長屋塀。
「……以上が、私の身に起こった一切にございます」
紘子は朝永での出来事と峰澤に身を寄せた経緯をかいつまんで重実に話した。
そう、かいつまんで。
鬼頭にどのような仕打ちを受けたか、どれ程の傷を負ったかなど、好いた男にとても言えたものではない。
だが、重実はかつて藩医の淳庵から聞いている……紘子の背中や脇腹には数多の刀傷がある事を。
(こいつは、十四の身空で一年も傷を負わされ続けたというのか……)
傷だらけの紘子の姿を想像しただけで、目の前にいる彼女が脆く崩れ去ってしまいそうな気さえして、重実は強く紘子を抱きしめた。
「よく……生き延びてくれたな」
(お前が生き延びてくれたから、俺はお前と出会えた)
「……生かしてもらったのです。多くの方々に」
ぽつりと返した紘子の声は、微かに震えている。
震えているのは声だけではなかった。
抱きしめた重実の腕にも、その小刻みな動きが伝わってくる。
「ひろ、もしや寒いか?」
「はい、少しばかり……」
(そういえば、お互い濡れたままだった。俺の着替えはどうにでもなるが、参ったな……母上の着物など残っちゃいないし、女中に頼むわけにも……仕方ない、忠三郎に厄介になるか)
「このままだと風邪を引くな。ひろ、ちょっと付き合え」
重実は紘子の腕を取り、長屋塀の扉に手を掛けた。
(「付き合え」とは、一体何処に……御殿にでも連れていくおつもりだろうか……)
朝永での事を思い出していたせいか、御殿に行くやもと想像しただけで紘子は胸の中がぐるぐると回るような悪心を感じる。
「いいえ、私はもうお暇いたします……」
半ば血の気の失せた顔でそう抗ってみるが、重実は
「何を言ってるんだ」
と即座に反対した。
「夜闇の中は賊にとって格好の猟場だぞ。そんな所にこのままひとり帰すなんて出来るか。明るくなって人目が利くようになれば賊もそうおいそれとは出てこなくなる。それまでは俺と共にいろ」
重実は紘子にそう釘を刺すと、
「心配するな、今のお前を御殿に引き込む程俺は鬼じゃない」
と言いながら彼女の手を引き再び雨の中に出る。
それから一刻程。
着替えを終えた重実は忠三郎の前に座っていた。
「すまんな、こんな夜分に」
「よもや一国一城の殿が濡れ鼠で家老の屋敷に転がり込んでくる日が来るなど想像だにしておりませんでした……しかも、おなご連れで」
「だから、悪かったって言ってるだろう」
重実は頭を掻き掻き忠三郎に詫びる。
忠三郎は嘆息しつつも、苦笑を浮かべた。
「とりあえず、事情は承知いたしました。所詮は家老の武家屋敷、不便もありましょうが夜が明けるまではどうぞおくつろぎ下さい」
「助かるよ。ところで、ひろはまだお喜世《きよ》のところか?」
喜世は忠三郎の妻で、着物を濡らした紘子に着替えを見繕っている。
「はい。そろそろ戻るかと……」
忠三郎がそう言いかけた時。
「お前様、紘子さんの支度が上がりました」
障子の外から喜世の声がした。
「ああ、入れてやっておくれ」
忠三郎が促すと、すっと障子が開く。
喜世に連れられた紘子は、部屋に入るなり忠三郎に丁寧に頭を下げた。
「ご家老様、この度はご厚情を賜り真にありがとうございます」
その所作の自然な様子と美しさに、忠三郎はほぅと感心する。
「これはまた、ご丁寧に……紘子殿、頭を上げなされ」
「そうですよ紘子さん。差し上げた着物は一昨年嫁いだ娘の着古し、気に病まれるような代物ではございませんからどうぞ煮るなり焼くなり」
部屋の隅に座り明るく笑いながら返す喜世に、紘子はようやく苦笑混じりの笑みを見せた。
「……はい」
人心地ついた様子の紘子に安堵し、重実が声を掛ける。
「ひろ、忠三郎にはお前の事情をある程度話したが、口の堅い男だから心配はいらない。な? 忠三郎」
「ええ、どうぞご安心めされよ、紘子殿」
「……ありがとうございます」
紘子は再び深々とお辞儀した。
「とはいえ……」
紘子が頭を上げたタイミングで、忠三郎は思案顔で切り出す。
「この峰澤で、しかも城下でおなごが賊に斬り掛かられるなど、穏やかではございませんな。同心に見廻りを増やすようそれとなく申し付けておきますが、殿は紘子殿がご心配なのでは? 御殿に暫くいらっしゃって頂いた方が安心かとは思いますが……」
「そ、それは……」
言い淀む紘子に、重実が
「それはこいつの濡れ衣が晴れてからだ。でないとひろも心苦しいだろうしな」
とすかさず助け舟を出した。
忠三郎は何か言いたげな表情を覗かせつつも、
「承知しました」
とだけ答えた。
そんな忠三郎の気持ちを慮ってか、重実は静かに言い添える。
「……勝算がないわけじゃない。ただ、正攻法では勝ち目がないというだけだ。田邉殿のお力を借りる必要もあるだろう」
「確かに、田邉殿にご公儀への根回しをお願い出来れば心強いですな」
「そういう事だ」
忠三郎との話がひと段落ついたところで、重実は紘子に微かに笑みを浮かべてみせた。
「このご時世、おなごひとりではどうにもならない事ばかりだが、こっちは老中付きの幕臣に顔馴染みがいる。お前が持っている『証』を潰させないための手は打てる筈だ。こいつは、取り潰されて二年も経つ田舎小藩の元家老には出来ない戦い方だろうさ」
(何と肝の据わったお殿様なのだろう……)
紘子は内心圧倒され、
「本当に、何とお礼を申し上げて良いか……」
と返すのが精一杯だ。
「礼などいらんさ。俺は、お前といたいという己の欲のために動くんだからな」
(それでも、身に余る……)
紘子は重実に小さく頭を下げる。
すると、彼女の前に立ち上がった重実の影が落ちた。
「今宵は色々あって疲れただろう? お喜世が部屋を用意してくれると言っていたから、ひろももう休むといい。俺も今夜はここに泊めてもらうから」
「はい……」
紘子は返事と共に顔を上げる。
その時ふと視界に入ってきたのは、重実が腰に差した刀の鞘。
鞘には金の椿が一輪咲いていた。
(……椿紋!!)
紘子は目を大きく見開いたまま硬直する。
「……?」
重実はただならぬ様子の紘子の視線を辿った。
そして、彼女が鞘の椿紋に目を奪われている事に気付く。
(この様子じゃ、わざわざ尋ねるまでもないな……)
重実はふっと微笑を洩らした。
「そういえば忠三郎、あの時の軟膏は良く効いたな」
「軟膏、でございますか……?」
忠三郎は当初は首を傾げたものの、重実が刀の鞘と紘子を交互に見ながら訴えてくる様から察し、
「……ああ、左様でございました。あの後随分腫れましたが、言われたままに良く冷やしたら治りも早うございました。藩医殿も驚かれていましたな」
と気の利いた返しを見せた。
(軟膏、ご家老様の言葉……間違いない)
紘子は息をするのも忘れて重実を見つめる。
(椿紋の若殿は、重実様だった……)
重実はそれ以上紘子に何を問うでもなく、
「おやすみな、ひろ」
とだけ言い残し部屋を出た。
喜世に寝所を案内され、ひとり布団に入った紘子は、胸に手を当てきゅっと握る。
(このような形で椿紋の若殿様にと再会出来ようとは……きっと、父上と母上が巡り逢わせて下さったのだ……重実様に)
雨音を聞きながら、紘子はゆっくりと目を閉じた。
(二年も前から、重実様は私に生きる糧を与えて下さっていた……)
胸の奥に灯った想いが、雨に冷えた体を温めてくれる……そんな心地を覚えながら紘子は眠りに就いた。
翌朝はすっかり雨も上がり、朝日が顔を出していた。
重実は紘子と共に忠三郎の屋敷を出て、長屋の手前まで送る。
「あの……色々とありがとうございました、重実様」
紘子が重実に頭を下げた。
「いいって。それに、これからが正念場なんだからな」
重実はそう言って軽く微笑んだ後、真顔に戻って
「今日の夕方には俺も多少暇が出来る。今後の事はその時にでも話そう。それと、昨夜の賊だが……行きずりの狼藉でなく何かの由でお前を狙ったのだとしたら、安心は出来ない。賊も昼間は大人しくしているかもしれないが、お前に目を付けているならば何らかの網を張っている恐れもある。いいか、俺が行くまでは下手に出歩くなよ」
と警告する。
紘子は
「承知しました」
と答え、再びお辞儀をして長屋の方に歩いていった。
長屋の扉を開け、足元のぬかるみを避けるようにして歩きながら、紘子はこれまで抱いてきた様々な感情を振り返る。
木戸屋で下女と若侍として出会ってからというもの、重実が言うように彼とは不思議な縁があった。
重実と過ごす時間が愛おしく思えれば思える程、彼を巻き込みたくないという葛藤も強まった。
(ただのご浪人ならば簡単に吉住に消される、身分のあるお武家様ならば関わり合ううちに同じ武士である吉住に私の存在が知られてしまうかもしれない……そう考えて私の事は伏せてきた。距離を縮めてはいけないと思ってきた。けれど……)
重実と共にある時は、ただの「紘子」として笑う事が出来た。
あづまで彼の沈んだ顔を見た時は、どうしようもなく胸が痛んだ。
いつしか、心は重実を求めるようになっていた。
(精一杯、生を楽しむ……そのためには、逃げるばかりではいけない。諦めたり、死を覚悟したりする前に、やるべき事がある……)
紘子の中に初めて出来た、「足掻く」という選択肢。
(全てを打ち明けた以上、もう重実様を巻き込まずにいる事は出来ない。それならば、重実様に累が及ばぬよう、あのお方の名誉と御家に傷が付かぬよう、私は身の潔白を証明しなければ。重実様は考え無しに突き進まれるようなお方ではない。思い付きで動かれるように見えて、その実は大変思慮深い。昨晩も、ご公儀への根回しをなさろうとお考えだった。重実様の仰る通りにして間違いはない筈。それに、何より……)
紘子は雨上がりの空を見上げ、端正な口元を引き締める。
(……生きたい。重実様のお傍で、生きていきたい。そのためには、私も戦わなくては)
ふと、亡き前夫に差し出された三行半の書状が紘子の頭に浮かんだ。
(重実様ならあれをきっと上手く用いて下さる。鬼頭様がお話しになっていなければ、吉住は三行半の存在を知らない筈。重実様に託すまでは、何があっても吉住に知られないようにしなくては……)
そんな事を考えながら歩くうち、いつの間にか紘子は部屋の前に辿り着いていた。
入口の戸を開けようとしたその時……。
「お久しゅうございます、幹子様」
東町の隣町、
その一角に佇む安宿の一室で、吉住は連れの男たちを腹立たしげに睨んでいた。
「も、申し訳ございません。その、腕の立つ浪人が邪魔に入りまして……」
雨でずぶ濡れの男が土下座する。
吉住は片方の口元を引きながら思案した。
そして、ため息ひとつ吐いた後に告げる。
「お前たちが持ってこられないと言うのならば、私が直々に行くしかあるまい。私が上手い具合に火種を運んでくる様をよく見ておくのだな」
一方、峰澤城の長屋塀。
「……以上が、私の身に起こった一切にございます」
紘子は朝永での出来事と峰澤に身を寄せた経緯をかいつまんで重実に話した。
そう、かいつまんで。
鬼頭にどのような仕打ちを受けたか、どれ程の傷を負ったかなど、好いた男にとても言えたものではない。
だが、重実はかつて藩医の淳庵から聞いている……紘子の背中や脇腹には数多の刀傷がある事を。
(こいつは、十四の身空で一年も傷を負わされ続けたというのか……)
傷だらけの紘子の姿を想像しただけで、目の前にいる彼女が脆く崩れ去ってしまいそうな気さえして、重実は強く紘子を抱きしめた。
「よく……生き延びてくれたな」
(お前が生き延びてくれたから、俺はお前と出会えた)
「……生かしてもらったのです。多くの方々に」
ぽつりと返した紘子の声は、微かに震えている。
震えているのは声だけではなかった。
抱きしめた重実の腕にも、その小刻みな動きが伝わってくる。
「ひろ、もしや寒いか?」
「はい、少しばかり……」
(そういえば、お互い濡れたままだった。俺の着替えはどうにでもなるが、参ったな……母上の着物など残っちゃいないし、女中に頼むわけにも……仕方ない、忠三郎に厄介になるか)
「このままだと風邪を引くな。ひろ、ちょっと付き合え」
重実は紘子の腕を取り、長屋塀の扉に手を掛けた。
(「付き合え」とは、一体何処に……御殿にでも連れていくおつもりだろうか……)
朝永での事を思い出していたせいか、御殿に行くやもと想像しただけで紘子は胸の中がぐるぐると回るような悪心を感じる。
「いいえ、私はもうお暇いたします……」
半ば血の気の失せた顔でそう抗ってみるが、重実は
「何を言ってるんだ」
と即座に反対した。
「夜闇の中は賊にとって格好の猟場だぞ。そんな所にこのままひとり帰すなんて出来るか。明るくなって人目が利くようになれば賊もそうおいそれとは出てこなくなる。それまでは俺と共にいろ」
重実は紘子にそう釘を刺すと、
「心配するな、今のお前を御殿に引き込む程俺は鬼じゃない」
と言いながら彼女の手を引き再び雨の中に出る。
それから一刻程。
着替えを終えた重実は忠三郎の前に座っていた。
「すまんな、こんな夜分に」
「よもや一国一城の殿が濡れ鼠で家老の屋敷に転がり込んでくる日が来るなど想像だにしておりませんでした……しかも、おなご連れで」
「だから、悪かったって言ってるだろう」
重実は頭を掻き掻き忠三郎に詫びる。
忠三郎は嘆息しつつも、苦笑を浮かべた。
「とりあえず、事情は承知いたしました。所詮は家老の武家屋敷、不便もありましょうが夜が明けるまではどうぞおくつろぎ下さい」
「助かるよ。ところで、ひろはまだお喜世《きよ》のところか?」
喜世は忠三郎の妻で、着物を濡らした紘子に着替えを見繕っている。
「はい。そろそろ戻るかと……」
忠三郎がそう言いかけた時。
「お前様、紘子さんの支度が上がりました」
障子の外から喜世の声がした。
「ああ、入れてやっておくれ」
忠三郎が促すと、すっと障子が開く。
喜世に連れられた紘子は、部屋に入るなり忠三郎に丁寧に頭を下げた。
「ご家老様、この度はご厚情を賜り真にありがとうございます」
その所作の自然な様子と美しさに、忠三郎はほぅと感心する。
「これはまた、ご丁寧に……紘子殿、頭を上げなされ」
「そうですよ紘子さん。差し上げた着物は一昨年嫁いだ娘の着古し、気に病まれるような代物ではございませんからどうぞ煮るなり焼くなり」
部屋の隅に座り明るく笑いながら返す喜世に、紘子はようやく苦笑混じりの笑みを見せた。
「……はい」
人心地ついた様子の紘子に安堵し、重実が声を掛ける。
「ひろ、忠三郎にはお前の事情をある程度話したが、口の堅い男だから心配はいらない。な? 忠三郎」
「ええ、どうぞご安心めされよ、紘子殿」
「……ありがとうございます」
紘子は再び深々とお辞儀した。
「とはいえ……」
紘子が頭を上げたタイミングで、忠三郎は思案顔で切り出す。
「この峰澤で、しかも城下でおなごが賊に斬り掛かられるなど、穏やかではございませんな。同心に見廻りを増やすようそれとなく申し付けておきますが、殿は紘子殿がご心配なのでは? 御殿に暫くいらっしゃって頂いた方が安心かとは思いますが……」
「そ、それは……」
言い淀む紘子に、重実が
「それはこいつの濡れ衣が晴れてからだ。でないとひろも心苦しいだろうしな」
とすかさず助け舟を出した。
忠三郎は何か言いたげな表情を覗かせつつも、
「承知しました」
とだけ答えた。
そんな忠三郎の気持ちを慮ってか、重実は静かに言い添える。
「……勝算がないわけじゃない。ただ、正攻法では勝ち目がないというだけだ。田邉殿のお力を借りる必要もあるだろう」
「確かに、田邉殿にご公儀への根回しをお願い出来れば心強いですな」
「そういう事だ」
忠三郎との話がひと段落ついたところで、重実は紘子に微かに笑みを浮かべてみせた。
「このご時世、おなごひとりではどうにもならない事ばかりだが、こっちは老中付きの幕臣に顔馴染みがいる。お前が持っている『証』を潰させないための手は打てる筈だ。こいつは、取り潰されて二年も経つ田舎小藩の元家老には出来ない戦い方だろうさ」
(何と肝の据わったお殿様なのだろう……)
紘子は内心圧倒され、
「本当に、何とお礼を申し上げて良いか……」
と返すのが精一杯だ。
「礼などいらんさ。俺は、お前といたいという己の欲のために動くんだからな」
(それでも、身に余る……)
紘子は重実に小さく頭を下げる。
すると、彼女の前に立ち上がった重実の影が落ちた。
「今宵は色々あって疲れただろう? お喜世が部屋を用意してくれると言っていたから、ひろももう休むといい。俺も今夜はここに泊めてもらうから」
「はい……」
紘子は返事と共に顔を上げる。
その時ふと視界に入ってきたのは、重実が腰に差した刀の鞘。
鞘には金の椿が一輪咲いていた。
(……椿紋!!)
紘子は目を大きく見開いたまま硬直する。
「……?」
重実はただならぬ様子の紘子の視線を辿った。
そして、彼女が鞘の椿紋に目を奪われている事に気付く。
(この様子じゃ、わざわざ尋ねるまでもないな……)
重実はふっと微笑を洩らした。
「そういえば忠三郎、あの時の軟膏は良く効いたな」
「軟膏、でございますか……?」
忠三郎は当初は首を傾げたものの、重実が刀の鞘と紘子を交互に見ながら訴えてくる様から察し、
「……ああ、左様でございました。あの後随分腫れましたが、言われたままに良く冷やしたら治りも早うございました。藩医殿も驚かれていましたな」
と気の利いた返しを見せた。
(軟膏、ご家老様の言葉……間違いない)
紘子は息をするのも忘れて重実を見つめる。
(椿紋の若殿は、重実様だった……)
重実はそれ以上紘子に何を問うでもなく、
「おやすみな、ひろ」
とだけ言い残し部屋を出た。
喜世に寝所を案内され、ひとり布団に入った紘子は、胸に手を当てきゅっと握る。
(このような形で椿紋の若殿様にと再会出来ようとは……きっと、父上と母上が巡り逢わせて下さったのだ……重実様に)
雨音を聞きながら、紘子はゆっくりと目を閉じた。
(二年も前から、重実様は私に生きる糧を与えて下さっていた……)
胸の奥に灯った想いが、雨に冷えた体を温めてくれる……そんな心地を覚えながら紘子は眠りに就いた。
翌朝はすっかり雨も上がり、朝日が顔を出していた。
重実は紘子と共に忠三郎の屋敷を出て、長屋の手前まで送る。
「あの……色々とありがとうございました、重実様」
紘子が重実に頭を下げた。
「いいって。それに、これからが正念場なんだからな」
重実はそう言って軽く微笑んだ後、真顔に戻って
「今日の夕方には俺も多少暇が出来る。今後の事はその時にでも話そう。それと、昨夜の賊だが……行きずりの狼藉でなく何かの由でお前を狙ったのだとしたら、安心は出来ない。賊も昼間は大人しくしているかもしれないが、お前に目を付けているならば何らかの網を張っている恐れもある。いいか、俺が行くまでは下手に出歩くなよ」
と警告する。
紘子は
「承知しました」
と答え、再びお辞儀をして長屋の方に歩いていった。
長屋の扉を開け、足元のぬかるみを避けるようにして歩きながら、紘子はこれまで抱いてきた様々な感情を振り返る。
木戸屋で下女と若侍として出会ってからというもの、重実が言うように彼とは不思議な縁があった。
重実と過ごす時間が愛おしく思えれば思える程、彼を巻き込みたくないという葛藤も強まった。
(ただのご浪人ならば簡単に吉住に消される、身分のあるお武家様ならば関わり合ううちに同じ武士である吉住に私の存在が知られてしまうかもしれない……そう考えて私の事は伏せてきた。距離を縮めてはいけないと思ってきた。けれど……)
重実と共にある時は、ただの「紘子」として笑う事が出来た。
あづまで彼の沈んだ顔を見た時は、どうしようもなく胸が痛んだ。
いつしか、心は重実を求めるようになっていた。
(精一杯、生を楽しむ……そのためには、逃げるばかりではいけない。諦めたり、死を覚悟したりする前に、やるべき事がある……)
紘子の中に初めて出来た、「足掻く」という選択肢。
(全てを打ち明けた以上、もう重実様を巻き込まずにいる事は出来ない。それならば、重実様に累が及ばぬよう、あのお方の名誉と御家に傷が付かぬよう、私は身の潔白を証明しなければ。重実様は考え無しに突き進まれるようなお方ではない。思い付きで動かれるように見えて、その実は大変思慮深い。昨晩も、ご公儀への根回しをなさろうとお考えだった。重実様の仰る通りにして間違いはない筈。それに、何より……)
紘子は雨上がりの空を見上げ、端正な口元を引き締める。
(……生きたい。重実様のお傍で、生きていきたい。そのためには、私も戦わなくては)
ふと、亡き前夫に差し出された三行半の書状が紘子の頭に浮かんだ。
(重実様ならあれをきっと上手く用いて下さる。鬼頭様がお話しになっていなければ、吉住は三行半の存在を知らない筈。重実様に託すまでは、何があっても吉住に知られないようにしなくては……)
そんな事を考えながら歩くうち、いつの間にか紘子は部屋の前に辿り着いていた。
入口の戸を開けようとしたその時……。
「お久しゅうございます、幹子様」