第96話 生きる糧、生かす糧・壱

文字数 3,868文字

 翌日、紘子は従重と連れだって城下の東町長屋に向かった。
 従重は、何も言わずとも杖を突いて歩く紘子の歩速に合わせて進む。紘子はそんな彼の優しさに、
「従重様、ありがとうございます」
 と感謝の言葉を告げるが、従重は
「構わん。どこの武家も次男坊は暇を持て余す穀潰しでしかない故、いくらでも付き合える」
 と、紘子の供をしていることについて自嘲気味に返した。
「いいえ、そのことではなくて……」
「では何だと言うのだ?」
「従重様お一人ならとうに長屋に着いている頃合いでしょうに、何も仰らず私の歩みに合わせて下さっているお心遣いにお礼を申し上げたかったのです」
 下心のない澄んだ笑みとともに与えられる言葉に、従重は額を掻き掻き紘子から顔を背ける。
「か、斯様なことは……『義弟(おとうと)』として当然であろう」
 「義弟」とあえて口にでも出さなければ心奥に封じた想いが暴かれてしまいそうで、しどろもどろになりながらも従重はそう返した。すると、今度は紘子の方が頬を赤らめ視線を右往左往させる。
「従重様、それは気が早すぎます……っ」
 慌てる紘子をどこか面白がるように、従重はふふっと小さく鼻で笑った。
(全く……仕草のひとつひとつさえ愛らしい。つくづく兄上が恨めしくなる)
 だが、従重は分かっている。紘子がこうして表情豊かにいられるのは、その恨めしい兄の愛情あってこそだと。それが分かっているからこそ……寂しい。
(確かに寂しいものだ。だが……ただの義弟でも何でもいい、それでもお前の心のどこかに俺という存在が残ってくれれば……俺はそれを糧に前に進める)
 抱える寂しさが決して漏れ出さないよう、従重は一度前を向き息を一つ吐いて話題を変える。
「ところで、お前のことだが……長屋の者たちには、『親を早くに亡くして以降色々と面倒を見てくれた親類が急な危篤となり、慌てて国許へ帰った。看病の末にその親類を看取り、後の葬儀やら何やらで慌ただしくしている最中(さなか)流行病(はやりやまい)を患ってしまい、治ったものの一時は生死を彷徨うほどに危うくなったせいで体が不自由になった』と説明してある。何者かに子細尋ねられるようなことあらば、そのようにして答えよ」
 中々上手く出来た筋書きに、紘子は瞬きを繰り返した。
「それは、従重様が考えて下さったのですか?」
「他に誰が考えるというのだ。兄上はお前を連れ帰ることで頭がいっぱいであった上に、峰澤に戻ってからもお前を侍らせ舞い上がるばかりであったろう。かと言うて、当人たるお前が己を偽る方便を考えるのもまた心苦しかろう。お前は隠し事は得意であっても嘘を吐くことは不得手であるしな。恐らく、長屋の者たちはお前に矢継ぎ早にあれやこれやと問うであろうが、俺の口から粗方を先に伝えておいた故、何とかなるであろう。お前が繋いでくれた縁のおかげで、今の俺は長屋でそこそこ信を置かれる立場となっておる。俺の言を疑う者もそうはおらぬ筈だ」
「……真のところを申し上げますと、子供たちのことが気がかりではあるものの、長屋の皆さんにどう説明したらよいかと今朝から思案に暮れておりました。従重様のおかげで穏便に済みそうです。ありがとうございます」
 従重の「お膳立て」に、紘子は頭を下げた。

 案の定、紘子と従重が長屋に通じる門をくぐると、
「ひょっとして、紘子さんじゃないかい?」
 という誰かしらの声を皮切りに次々と住人たちが集まってくる。
「ああっ、ひろこだ!」
「よりしげさまもいらした!」
 かつて紘子の元に通い、今は従重に読み書きを教わっている子供たちも何人か長屋の小道から飛び出してきた。
「いきなりいなくなっちまったもんだから心配したよ。けど……聞いたよ、難儀なことだったねぇ」
「さぞ辛かったろうに」
 従重の「筋書き」を事前に吹き込まれているのだろう、紘子の顔と彼女が手にしている杖を交互に見ながら、住人たちは同情の眼差しを寄せる。
「いいえ、ご心配をおかけしました」
 余計なことは言わず、紘子は心からの詫びを告げた。
「紘子、立ち話も疲れよう。中に入れ」
 従重は入り口の戸を開け、紘子や住人たちを長屋の中にさりげなく入れる。とはいえ長屋はそう広い建物ではない。ほんの数人集まっただけで玄関口は人も通れない有様となった。すると、何の騒ぎかと蕎麦屋「あづま」の夫婦までやってきて……。
「お紘ちゃんっ! 聞いたよ、大変な目に遭ったらしいじゃないか! ああ、流行病なんかもらっちゃって……お紘ちゃんみたいないい子に神様は何てことしてくれるんだろうねぇ」
 あづまの女将、千代は例の恰幅のいい体で玄関口の人だかりを押しのけ紘子の前になだれ込むと、細い手を取り涙声でそう言った。
「女将さん、ご心配をおかけしてすみませんでした。ですが、もう大丈夫です」
 苦笑する紘子に、千代はぶんぶんと首を横に振る。
「何を言ってるんだい、お紘ちゃん。そこのお侍様――ええと、従重様に聞いたよ、杖が手放せなくなったって。こんなに器量良しなのに、これじゃ嫁の貰い手が……こうなったら、あたしが草の根掻き分けてでもいい人を――」
「案ずるな。紘子は俺の兄が娶る」
「そうかいそうかい、そりゃあ良かった……って、ん? 従重様、今何て!?」
 千代は紘子の手を握ったまま素っ頓狂な声を上げ、目を皿のようにして従重を見た。
「紘子は俺の兄と夫婦になると言うたのだ」
 半ば呆れがちにそう言い放つ従重と、
(従重様っ、何も今ここで仰らなくても……!)
 と愕然とする紘子を交互に見ながら、千代は
「……従重様はお旗本の次男、そのお兄さんてことは、跡取りじゃないか! ならお紘ちゃんはお旗本の家に嫁ぐのかい!? お旗本なら稼ぎも身分も立派なもんだ、ああそれならお紘ちゃんが要らぬ苦労をすることもない。何てこったい、こんなにいいことが他にあるかい!」
 とぶつぶつと呟いた末に感無量の様子でにっこりと笑う。

「お紘ちゃん、あたしゃ前々から心配だったんだよ、あんたどうも男運がなさそうに見えたからねぇ。それがお旗本の跡取りに見初められるなんて……のぶさんにも聞かせてやりたかったよ」
(のぶさんに、聞かせてやりた

……?)
 千代の口から不意に出てきた「のぶ」という名と、続いた語尾の不自然さを、紘子は聞き逃さなかった。
「女将さん、のぶさんは今どこに……?」
 のぶは、紘子と同じ東町長屋に小間物の行商を営む夫の由作(ゆうさく)と一人娘のたきと三人で暮らしていた女性だ。たきは紘子の長屋で読み書きを習い、その達筆さを買われ従重の紹介で武家に養女として入る予定だったが、直前に由作の借金が発覚、たきは借金の形に連れて行かれたのだった。
「さてねぇ……のぶさん、お紘ちゃんが親類の所に行ってる間に由作さんと離縁してね、長屋を出てってそれっきりさ。実家が安田町にあるって言ってたから、恐らくそっちに行ったと思うけどね。体を張ってのぶさんを止めたお紘ちゃんにこんなこと言うの酷なんだけど……由作さん、結局博打を止められなくて、まぁた借金拵えてさ。それであたしたちや長屋のもんたちで由作さんを脅し――いやいや、説き伏せて離縁させたんだ。あのままじゃ、今度はのぶさんまで身売りさせられちまうと思ったからさ。のぶさんね、ここを出てく時まで『紘子さんに取り返しのつかないことした』って悔やんでたっけ……」
 千代の話を聞き、紘子は俯く。
(私はのぶさんに託されたたきを守ってあげられなかった……せめて、あの時たきと逃げ切ることができていたら……いや、借金取りはたきが駄目ならのぶさんを連れ去っていたかもしれない)
 せめて、授けた学問が今のたきにとって何人にも奪われることのない生きる糧であってほしい。そう願う反面、紘子は諦めきれない感情がどこからともなくふつふつと湧いてくるのを自覚した。
(たきを……連れ戻したい。いつかまた、のぶさんと母娘で暮らせるように)

「紘子、お前何を考えておる?」
 長屋で千代たちとひとしきり話した後、紘子は従重とともに城へと伸びる緩やかな坂道を上っていた。
 「気を許せる者が傍にいれば紘子は城を見ても耐えられる」と事前に雪の助言を受けていたのか、従重は紘子の左腕を取り、彼女の顔色を窺いながらぴたりと隣に並んで歩く。故に、彼は紘子が何か考え込んでいることにも敏感に気付いた。
 紘子ははっと視線を上げて従重を見る。
「……松代の真田殿の真似事でもするつもりか?」
 従重のその一言は、紘子の思惑をすべて見透かしてのものだった。
 かつて、信濃松代藩主真田信之公は、上田藩主時代に相次ぐ浅間山の噴火や天候不順による飢饉で困窮した農民を救済すべく年貢を減免したばかりか、それでも身売りを余儀なくされた農民を自腹で買い戻すなどしていた。
 恐らくそうした逸話をどこぞで耳にしたのであろう従重は、紘子もまたたきを買い戻そうとしているのではないかと推測しているのだ。
(従重様は、すべてお見通しなのだ。私がたきを連れ戻したいと考えていることも、そのためには一度売られたたきを買い戻すしか(すべ)がないことも。そして、その金子(きんす)を用立てるのは私ごときには無理であることも……)
 買い戻す、金が要る、金を用立てる道筋が立たない、しかし諦められない……事実、紘子の中ではそれが延々と巡っていた。故に何も言えずただ考えるばかりだったのだが、そんな彼女に従重ははっきりと告げる。
「紘子、お前は一つ大きな思い違いをしている。そのせいで、今お前が考えていることへの答えが見えぬのだ」



※参考文献:Wikipedia-真田信之
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