第77話 枇杷丸

文字数 1,643文字

 門を出ると、早速小平次が馬を引いて来た。
 房飾りなどのない至って質素な栗毛の大柄な馬を一目見て、紘子は既視感を覚える。
「重実様、この子はもしや……」
「覚えていたか。あの時は一応『借りてきた馬』ということになっていたが、こいつは正真正銘峰澤清平家の馬で、『枇杷丸(びわまる)』という」
 かつて重実は「重ノ介」として紘子を馬に乗せ出掛けたことがあり、その際に使った馬がこの枇杷丸だった。
「枇杷丸というのですか……」
 紘子は愛おしげに目を細めて
「そうか、お前には良い名があったのね。枇杷丸、よろしく」
 と声を掛ける。
 枇杷丸は尻尾を高く振りながら紘子の顔に鼻先を擦り寄せた。
 紘子の頬に鼻先を擦る枇杷丸は目を細めて如何にも甘えている様子だ。
「お前も私を覚えていてくれたのね。ふふっ、くすぐったい」
 今も昔も、人は動物を相手にすると無垢になる。
 紘子は年相応の飾らぬ屈託ない笑顔を枇杷丸に注いだ。
「城で一番の臆病馬が、紘子殿にこれ程馴れるとは……珍しいこともあるものですね、殿。……殿?」
 枇杷丸は清平家が持つ馬の中では最も体が大きく力もあり、賢い。
 唯一にして致命的な弱点が、気の弱さだった。
 故に、ほぼ初対面に等しい紘子に枇杷丸がここまで馴れることは、日頃枇杷丸の世話を手伝っている小平次には驚きなのだ。
 だが、小平次の驚きは今回これに留まらない。
(枇杷丸、貴様……)
 重実の視線が枇杷丸に突き刺さっている。
(……俺より先にひろの頬に唾付けやがって! 俺はまだ鼻先さえ掠めてないってのに!!)
「枇杷丸」
 重実は笑顔を貼り付け枇杷丸の瞳をじっと見据えた。
(俺を差し置いていい度胸しているなぁ、おい)
「……ぶるるっ」
(ひえぇ、どうして殿はお怒りで? 僕この娘好きなんだもん、前に乗せた時撫で撫でしてくれたし、乗るのも上手だったし……)
「……分かってるな?」
(馬だろうと何だろうと関係ないんだよ、俺より先にこいつに手を出すな!)
「ひん……」
(どうして僕が怒られなきゃいけないの……? 僕、優しい娘が好きなだけなのに……ううぅ、殿が怖い……あの笑顔、目が全然笑ってない!!)
 枇杷丸の尻尾は哀れな程に股の間に隠れ、顔もすーっと紘子から離れていく。
「枇杷丸、どうしたのでしょう? 私が何か怯えさせてしまうようなことをしてしまったのでしょうか……」
 紘子は寂しげに眉根を寄せるが、重実は笑顔のままだ。
「いや、そんなことはないさ」
(それにしても、さっきのひろのの笑顔は何だ……あんな顔、俺でさえなかなか見られんというのに……馬ならあの笑顔を引き出せると言うのか!? 俺は馬にも劣るのか……?)
 重実はあくまでいつもの調子を装っているものの、彼と付き合いの長い三木助と小平次は顔を見合わせひそひそと囁き合う。
「兄上、殿は先程から一体どうなさったんでしょう? いつもの殿ではないように見えます……」
「見て分からぬか小平次。あれは悋気(りんき)だ。情けない……一国の主たる者が馬相手に悋気を起こすなど……」
「殿が枇杷丸に悋気でございますか!?」
「馬鹿! 声が大きい!!」
 三木助は慌てて小平次の口を塞いだが、既に重実の冷ややかな視線が二人に向いていた。
「三木助、小平次」
「「はっ!」」
「……宿の手配は出来ているな?」
「勿論にございます!」
 三木助が即答すると、重実はため息ひとつの後に
「ならば良い」
 とだけ答え、枇杷丸に乗る。
 そして、馬上から腕を差し伸べ力強く紘子を引き上げると、背後から抱くようにして彼女の体を支えた。
「……あいつらの妄言、頼むから真に受けてくれるな」
 耳元に零された一言に紘子は思わず振り返る。
 重実は珍しく目を合わせようとせず、彼らしからぬその様が紘子の顔を緩ませた。
「私はそのような重実様のことも好きですよ」
「っ!!」
 重実だけに聞こえる声音で囁かれた紘子の一言。
(駄目だ、直視出来ん……!)
 とてつもない不意打ちを食らい言葉を完全に失った重実には、紘子の胴に回した腕に力を込めるのが精一杯の返しだった。
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