第50話 死の淵に・壱
文字数 2,518文字
冷たく湿る石牢に陽が差し込む。
あれから何日経ったのか、今日が何月何日か、紘子にはそれすらもう分からなかった。
寒さに体を震わせるだけで堪え難い激痛が全身を駆け巡る上に、どんなに息を吸ってもまるで体に入る気がしない。
「……だ、……ろ」
ぼんやりと声が聞こえるが、ろくに聞き取る事さえ出来ない。
直後、着物の奥襟を掴まれずるずると引きずられる。
時折意識は闇に堕ち、その回数は日に日に増えていった。
それでも彼女は、うわごとのように同じ一言だけを繰り返す。
「私は鬼頭様を手に掛けておりません」
ただ、それだけを。
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旧朝永領内の奉行所に到着するなり、紘子は問答無用に牢に押し込められた。
箱入りの武家娘、牢にぶち込めば容易く我を失い言われるがままになるだろうと吉住の手下は当初甘く見ていたが、「足掻く覚悟」を決めてやって来た紘子はてんで罪状を認めない。
だが、従重を脅した吉住が後れて奉行所に到着すると状況は一変する。
――七日前。
「私は鬼頭様を手に掛けておりません」
石牢の中で正座する紘子は、淡々としかし毅然にその一言だけを告げる。
「くそっ、何て生意気な女だ」
「手籠めにして口を割らせてやるか」
「ああ、よくよく見りゃ上玉の姫様だからなぁ」
物騒な事を口にし出した手下を前にしても、紘子は表情ひとつ変えない。
すると、草鞋を擦るような足音が牢に響いた。
手下が振り返ると、
「それはならん」
と言いながら吉住が姿を現す。
「武家の娘を手籠めになど、危ない橋を渡るものではない。無駄に気位の高い女は、辱められると舌を噛む。我が殿の命を奪った大罪人に沙汰が下る前に自害などされては、これまでの苦労が水の泡であろう?」
「は、はい……」
吉住は手下にそう忠告すると、冷えた目で柵越しに紘子を見下ろした。
紘子は決して吉住に目を合わせようとはしない。
それが軽蔑からくるものか、怒りからくるものか、それとも恐怖からくるものか。
吉住は腰の脇差しを外し、手下に渡す。
「これで女の髪を刈れ」
この一言に、紘子の肩が僅かに跳ねた。
吉住はそれを見逃さず、「勝利」を確信する。
「この女には、それが最も堪える」
手下が二人牢に入った。
一人が紘子を押さえ付け、もう一人が吉住の脇差しを抜く。
「やっ……」
これまで手下どもに微塵の動揺も見せなかった紘子の口から、初めて小さな悲鳴が洩れた。
しかし、鷲掴みにされた髪はうなじから一刀で刈り上げられる。
ざくっ、という音の後、紘子の目の前に切った髪がぼとりと落とされた。
「あ……」
言葉が出ない。
心臓が暴れ、嫌な音を立てる。
胃の腑がぐるぐると回った。
かつての夫の姿が、怒声が、紘子の脳内に鮮明に甦る。
一瞬にして様相を変えた紘子に、吉住が怜悧に笑った。
「さて、この次は何が待っているか、貴女様ならお分かりになりましょう?」
かつて髪を刈られた後始まったのは、地獄の日々。
嫌でも思い出され、紘子はそれを振り払おうと何度も首を横に振る。
「まだ抗いますか。別に構いませんが……どこまで意地を張られるか、見物させて頂きますかね」
吉住はそう言い残し、紘子に踵を返した。
去ろうとする彼に、手下が問う。
「吉住様、足枷か何か手配願えませんか? この牢、ろくに手入れされてなかったもんで錠は壊れてるし柵もがたついてるしで。交代で見張るにも、厠を我慢せんとならなかったりで色々と手が掛かかりまして……」
「何だ、そんな事か。他愛もない」
吉住は喉の奥で笑いながら手下に命じた。
「両足を潰せば良いだけの事だろう。ああ、ただし死ぬような傷は付けるなよ? 甲の辺りに刀を一刺し、それで小骨を砕けば十分だ。その脇差し、お前たちにくれてやる。好きに使え」
「しょ、承知しました」
吉住が去ると、脇差しを手にした男が仲間に声を掛ける。
「女を立たせろ」
言われた方は、過去と現在の狭間でいまだに平静を取り戻せない紘子の腕を掴み、無理やり引き上げた。
脇差しを持った男は、紘子の前に屈むと右の足首を強く握る。
そして、ひと思いにその刃を足の甲に垂直に突き刺した。
「ああっ!」
刺された瞬間よりも、刃を抜き取られる時に紘子の脳天を痛みが突き上げる。
「はいよ、もう一丁」
抜かれた脇差しは、続いて左の足の甲を貫いた。
呼吸すら詰まり、紘子の頭はがくんと後ろに反っくり返る。
「何だ、存外呆気ねぇな」
手下たちは気絶した紘子を石床に転がし、牢を出た。
その後意識を取り戻したものの、今度は傷の痛みが紘子の体を震わせる。
もはや、膝より下の感覚はおかしい。
倒れたまま起き上がる事さえままならない。
「……弓矢を取る習い、敵の手にかかって命を失う事、まったく恥にて恥ならず」
彼女の唇は無意識に千手前を刻む。
戻った意識は過去に遡ったままで、紘子は虚ろな瞳でただ痛みを凌ぐためにそれを呟いた。
両足の甲には貫通した刀の刺し傷、牢の石床には生々しい血溜まり。
血溜まりは、切り落とされ放られた紘子の髪までも飲み込み、気味悪く月光に照らされている。
このまま、ただ死を待つのみ……そう思った時、月光に照らし出されたものが視界に飛び込んできた。
(あれは、櫛……?)
切り落とされた髪には、櫛が差されたまま。
血塗れになった櫛を見た紘子の心がようやく現在に戻る。
(そうだ……私は、約束したではないか……「足掻く」と、そう約束したではないか……)
「重実様……」
愛しい人の名を口にした途端、紘子の目尻を涙が伝い、石床に染み込んでいった。
(いけない……身に覚えのない濡れ衣など、決して認めてはいけない……たとえこの首、刎ねられようとも……)
紘子は歯を食いしばる。
この時期、信州山奥の夜は寒い。
疲労でうつらうつらしかけても、石床の冷たさに震え、傷の痛みに覚醒され、結局紘子は一睡も出来ぬまま朝を迎える。
それでも彼女の心は、しっかりと現在 にあった。
あれから何日経ったのか、今日が何月何日か、紘子にはそれすらもう分からなかった。
寒さに体を震わせるだけで堪え難い激痛が全身を駆け巡る上に、どんなに息を吸ってもまるで体に入る気がしない。
「……だ、……ろ」
ぼんやりと声が聞こえるが、ろくに聞き取る事さえ出来ない。
直後、着物の奥襟を掴まれずるずると引きずられる。
時折意識は闇に堕ち、その回数は日に日に増えていった。
それでも彼女は、うわごとのように同じ一言だけを繰り返す。
「私は鬼頭様を手に掛けておりません」
ただ、それだけを。
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旧朝永領内の奉行所に到着するなり、紘子は問答無用に牢に押し込められた。
箱入りの武家娘、牢にぶち込めば容易く我を失い言われるがままになるだろうと吉住の手下は当初甘く見ていたが、「足掻く覚悟」を決めてやって来た紘子はてんで罪状を認めない。
だが、従重を脅した吉住が後れて奉行所に到着すると状況は一変する。
――七日前。
「私は鬼頭様を手に掛けておりません」
石牢の中で正座する紘子は、淡々としかし毅然にその一言だけを告げる。
「くそっ、何て生意気な女だ」
「手籠めにして口を割らせてやるか」
「ああ、よくよく見りゃ上玉の姫様だからなぁ」
物騒な事を口にし出した手下を前にしても、紘子は表情ひとつ変えない。
すると、草鞋を擦るような足音が牢に響いた。
手下が振り返ると、
「それはならん」
と言いながら吉住が姿を現す。
「武家の娘を手籠めになど、危ない橋を渡るものではない。無駄に気位の高い女は、辱められると舌を噛む。我が殿の命を奪った大罪人に沙汰が下る前に自害などされては、これまでの苦労が水の泡であろう?」
「は、はい……」
吉住は手下にそう忠告すると、冷えた目で柵越しに紘子を見下ろした。
紘子は決して吉住に目を合わせようとはしない。
それが軽蔑からくるものか、怒りからくるものか、それとも恐怖からくるものか。
吉住は腰の脇差しを外し、手下に渡す。
「これで女の髪を刈れ」
この一言に、紘子の肩が僅かに跳ねた。
吉住はそれを見逃さず、「勝利」を確信する。
「この女には、それが最も堪える」
手下が二人牢に入った。
一人が紘子を押さえ付け、もう一人が吉住の脇差しを抜く。
「やっ……」
これまで手下どもに微塵の動揺も見せなかった紘子の口から、初めて小さな悲鳴が洩れた。
しかし、鷲掴みにされた髪はうなじから一刀で刈り上げられる。
ざくっ、という音の後、紘子の目の前に切った髪がぼとりと落とされた。
「あ……」
言葉が出ない。
心臓が暴れ、嫌な音を立てる。
胃の腑がぐるぐると回った。
かつての夫の姿が、怒声が、紘子の脳内に鮮明に甦る。
一瞬にして様相を変えた紘子に、吉住が怜悧に笑った。
「さて、この次は何が待っているか、貴女様ならお分かりになりましょう?」
かつて髪を刈られた後始まったのは、地獄の日々。
嫌でも思い出され、紘子はそれを振り払おうと何度も首を横に振る。
「まだ抗いますか。別に構いませんが……どこまで意地を張られるか、見物させて頂きますかね」
吉住はそう言い残し、紘子に踵を返した。
去ろうとする彼に、手下が問う。
「吉住様、足枷か何か手配願えませんか? この牢、ろくに手入れされてなかったもんで錠は壊れてるし柵もがたついてるしで。交代で見張るにも、厠を我慢せんとならなかったりで色々と手が掛かかりまして……」
「何だ、そんな事か。他愛もない」
吉住は喉の奥で笑いながら手下に命じた。
「両足を潰せば良いだけの事だろう。ああ、ただし死ぬような傷は付けるなよ? 甲の辺りに刀を一刺し、それで小骨を砕けば十分だ。その脇差し、お前たちにくれてやる。好きに使え」
「しょ、承知しました」
吉住が去ると、脇差しを手にした男が仲間に声を掛ける。
「女を立たせろ」
言われた方は、過去と現在の狭間でいまだに平静を取り戻せない紘子の腕を掴み、無理やり引き上げた。
脇差しを持った男は、紘子の前に屈むと右の足首を強く握る。
そして、ひと思いにその刃を足の甲に垂直に突き刺した。
「ああっ!」
刺された瞬間よりも、刃を抜き取られる時に紘子の脳天を痛みが突き上げる。
「はいよ、もう一丁」
抜かれた脇差しは、続いて左の足の甲を貫いた。
呼吸すら詰まり、紘子の頭はがくんと後ろに反っくり返る。
「何だ、存外呆気ねぇな」
手下たちは気絶した紘子を石床に転がし、牢を出た。
その後意識を取り戻したものの、今度は傷の痛みが紘子の体を震わせる。
もはや、膝より下の感覚はおかしい。
倒れたまま起き上がる事さえままならない。
「……弓矢を取る習い、敵の手にかかって命を失う事、まったく恥にて恥ならず」
彼女の唇は無意識に千手前を刻む。
戻った意識は過去に遡ったままで、紘子は虚ろな瞳でただ痛みを凌ぐためにそれを呟いた。
両足の甲には貫通した刀の刺し傷、牢の石床には生々しい血溜まり。
血溜まりは、切り落とされ放られた紘子の髪までも飲み込み、気味悪く月光に照らされている。
このまま、ただ死を待つのみ……そう思った時、月光に照らし出されたものが視界に飛び込んできた。
(あれは、櫛……?)
切り落とされた髪には、櫛が差されたまま。
血塗れになった櫛を見た紘子の心がようやく現在に戻る。
(そうだ……私は、約束したではないか……「足掻く」と、そう約束したではないか……)
「重実様……」
愛しい人の名を口にした途端、紘子の目尻を涙が伝い、石床に染み込んでいった。
(いけない……身に覚えのない濡れ衣など、決して認めてはいけない……たとえこの首、刎ねられようとも……)
紘子は歯を食いしばる。
この時期、信州山奥の夜は寒い。
疲労でうつらうつらしかけても、石床の冷たさに震え、傷の痛みに覚醒され、結局紘子は一睡も出来ぬまま朝を迎える。
それでも彼女の心は、しっかりと