第89話 永遠に誓う・後

文字数 2,652文字

 紘子は呼吸も忘れてただ重実の視線に囚われる。
(お傍にいたいとは常に思ってきた。重実様が心から私を愛して下さっていることも十分分かっていた。けれども、それはきっと側室という立場で叶うものとばかり……)
 いつかこんな日が来ればいい……そう願ってはいてもそれは「妻」という形ではないだろうと心のどこかで思っていた紘子にとって、重実が示した「形」は即答出来ない重さを持って彼女に与えられた。
「妻、とは……?」
「妻は妻だ、一人しかおるまい」
「お……お妾では、なく……?」
 恐る恐る零された紘子の問いに、今度は重実が息を止める。
(何だよ……こいつには、俺の心はまるで伝わってなかったのか……? いや、違う)
 重実はかぶりを振った。
(俺がしかと伝えていなかっただけだ。俺に側室を持つ気がないことを、こいつに話したことがなかったからな……)
 重実は思わず止めていた息を吐き出すと、ひとつひとつ確かめるように言葉を紡ぐ。
「俺は、生涯側室を持つつもりはない。幼き頃よりそれは固く心に決めていたし、忠三郎や家中の者たちも承知のことだ。母が側室であったが故に多くの辛苦を味わってきたのをこの目で見てきたからな。だから、俺はお前をただ一人の妻として迎えたい」
(どうしよう……これほど嬉しいことはない筈だのに、何故こうも胸が苦しいのか……このお方の「ただ一人」になれるなど、これ以上の望みはないというのに、それがこんなにも……)
 ……重い。
 その一言以外に己の感情を性格に表す言葉が見つからない。

『子の産めぬ正室に用はない』

 愛してもいなかったかつての夫の言葉は、縁の切れた今でも紘子の心を縛る。
 その言葉が、悲しいかなこの時代の「常識」であったせいだろう。
(もし、私が重実様の子を産めなかったら……)
 重実への愛情が突き抜けているからこそ、彼の立場を思うと恐ろしくなる。
 加えて、紘子は元は大名格に近いとさえ言われた旗本の息女でも、今は取り潰され士分なき身だ。
 仮に元の家柄を評され公儀に婚儀の許しを得られるとしても、その道程はすんなりとはいかぬだろう。
 金銭を含めた様々な「根回し」を要求される可能性も否めず、重実にいらぬ苦労をさせるかもしれない。
「……子を」
 大きくなった不安が紘子の口からぽろりと落ちた。
「ん?」
「子を、産めないかもしれませ、ん……」
 微かに震えた紘子の語尾に、重実の手が勝手に動く。
 自然と彼女の頬に触れ、まだ落ちぬ涙を拭うかのように指先を添えた。
「養子を取れば済む話だ。それもままならなければ、従重にさっさと家督を譲るさ。あいつなら何とかしてくれるだろう」
「よろしいのですか……まことに、それで……ご公儀にも、お許しを頂けるかどうか……」
 重実は穏やかな微笑で紘子の不安をひとつずつ消していくように返す。
「そのための『後ろ盾』だって今日得られただろう? ……誓った筈だ、神仏を敵に回そうと俺はお前を守り抜くと。その誓いを貫くためなら、どんな苦労も苦労じゃない。それとも……俺の傍に居たいというのは、あれは偽りか?」
「そんなことは――」
「だよな? ならば、お前の選ぶ道はひとつじゃないか?」
 こうも優しく退路を阻むやり方があろうか。
(私は……まことに重実様の「隣」にいていいのだ……それを選んで良いのだ……)
「はい……」
 紘子が小さな返事をするのと、重実の指先が温かい雫に濡れるのは同時だった。
「……喜んで、承ります」
「ああ……それでいい」
 雫を柔く拭うと、重実はその手を彼女の顎の奥に回し、顔を寄せる。
 次いで零れようとする涙に鼻先をすり寄せ、至近距離で視線を絡めた。
(重実様……)
 悟ったように瞼を閉じた紘子と、重実は遠慮がちに唇を重ねる。
 紘子が受け入れたことを感じ取ると、僅かに吸いつき熱を煽る……が、煽られたのは彼の方だった。
 唇を離してみると、紘子はすっかり頬を桜色に染め、うっとりと惚けた顔で恥じらい重実から視線を逸らしている。
 その様に彼は全身の血がかっと熱くなった。
(……もう駄目だ)

 長らく踏ん張らせてきた心のたがが、今度こそ砕け散る。
 重実は両腕を紘子の背に回し、額と額をつけて熱い吐息混じりに囁いた。
「……お前が欲しい」
「私は……とっくに貴方様のものです」
「……怖くはないか?」
 重実に尋ねられ、紘子は彼に体を許そうとしていることに初めて気付く。
 一瞬、かつて朝永で刻まれたおぞましい記憶が甦るが、何故か体が震えることも腹の底が冷えるような不快感もない。
 むしろ、知らない感覚がぞくぞくと騒ぎ、衝動的に重実の背に腕を回し、着物をきゅっと掴んだ。
「分かりません……ただ、傷が……」
「痛むか?」
 気遣わしげな問いかけに、紘子はふるふると首を横に振る。
「あまり、見目良いものでは……お気を悪くされないかと……」
 紘子がその身に負ってきた数多の古傷を思い出し、重実は一度彼女から離れると行燈の灯を吹き消した。
「お前が懸命に生きてきた証を悪くなど思うものか。だが、お前が気に病むならば、こうして見えなくしてしまえばいい」
 暗闇と化した部屋の中で、再び触れる重実の温もりと囁きがあまりに優しくて、紘子は彼の胸元に寄り掛かる。
「お前に、俺の心を全てやる……」
 紘子の耳朶にそう落とすと、重実は紘子の帯を解き、着物の袷に手を差し入れゆっくりと剥いだ。
 褥の上に紘子の体を静かに横たえ、己の着物を取り去り覆い被さると熱い呼吸ごと貪るように唇を奪う。
(ああ……熱い……)
 感じたことのない刺激と熱に浮かされるように紘子の体から次第に力が抜けていくと、重実の唇が彼女の首筋から胸元へと這い、胸の先に触れた。
「んん……っ」
 思わず漏れ出た声に、紘子ははっと我に返り奥歯を噛みしめる。
「……力むな、ひろ」
 無意識のうちに力が入り閉じていた太腿に手を滑り込ませながら、重実は紘子の唇を口づけで塞いだ。
(私は……どうなるのだろう……いや、もう、どうなってもいい……)
 次第に深くなっていく口づけと腰奥への刺激に抗えず開いていく体に戸惑いを覚えても、それを拒む理性はもう紘子の中にはない。
(どうか、どうかもっと……)
 はしたなく求める乱れた心さえ受け入れ、紘子は重実の体にしがみつく。
「そうして何もかも俺に委ねろ」
 唇を離した重実の息はいつになく荒い。
 その呼吸が首筋や胸先に当たる度、紘子の下腹が疼いて潤む。
「ひろ、愛している」
 紘子の首筋に顔を埋めながら囁かれた一言の後、二人の体は夜闇の中ひたりと重なった。
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