第39話 幹子の昔語り・伍

文字数 4,101文字

 ある日、僧の紘蓮(こうれん)殿が私の元に訪ねてきた。
 紘蓮殿はイネの息子で、私が嫁ぐ前は京にある大きなお寺で修行僧をしていた。
 イネが言うには、嫁ぐ私を心配した父上が紘蓮殿に秘かに頼んだのだそうだ。
 朝永の地に潜り込み、私を見守ってほしいと。
 そして、万一の時は私の力になってほしいと。
 紘蓮殿は二つ返事で朝永の寺に僧としてやってきたそうだ。
 京の名だたる寺で修行していた事もあり、山奥の田舎である朝永ではすんなりと僧の一人として迎え入れられたようだった。

「ご無沙汰しております、幹子様」
 紘蓮殿とはイネを通じて幼少の頃によく会っており、気心も知れていた。
「息災のようで何よりです、紘蓮殿」
 私には力ない笑顔を見せてそう返すのが精一杯だった。
「……」
 紘蓮殿は静かに笑むだけだった。
 恐らく、私の酷い有様に返す言葉を失っていたのだろう。

 だが、暫しの沈黙の後紘蓮殿は真剣な面持ちで口を開いた。
「幹子様の御身の上を心配はしておりましたものの、この地での信を得るため今日まで城に上がれませんでした事、何とぞお許しを」
「いいえ、父上の頼みとはいえ、貴方様には慣れ親しんだ京の寺を出て頂いて、お母上であるイネにも甚大な苦労を強いている……感謝や詫びこそすれ、咎めるなどもっての外」
 紘蓮殿は一度ぐっと口を引き結んだ後、静かに話し始めた。
「幹子様、八束のお家に戻りましょう」
「……え?」
 私は耳を疑ったが、紘蓮殿の表情はいたって真剣そのものだった。
「このままでは、幹子様の御身が持ちません」
 私の事を心配してくれる存在がイネや雪の他にもある、その事は大層嬉しかった。
 けれど、私はゆるゆると首を横に振った。
「私には、私を支える其方のお母上や八束の両親を守る責があります。この務めから逃げるなど、八束の名折れ。それに……どのみち私は死ぬまで城の外には出られません。外に出て余計な事を漏らさぬようにと、私には常に吉住――家老の息の掛かった者が目を光らせていますから」
 すると、紘蓮殿は背筋を伸ばしたまま、
「では、離縁状を頂けばよろしい」
 と平然と返してきた。
 そして、唖然とする私に対しそこから先は声を落として続けた。
「……某、鬼頭家ひいては藩の内情について城の外で様々な事を耳にいたしました。殿は幼き頃より道理の通らぬ性分であらせれたらしく、元服前から酒に手を付けた末に中毒になっているとの事。積年の飲酒が祟り、今では酒の毒が既に頭に上っていると専らの噂、それを知りながらご家老は殿の飲酒を止めるどころか毎晩勧める始末。ご家老は、殿のお体など二の次で藩を意のままにすべく殿を利用しているに他なりません」
「吉住の思惑は……私も薄々気付いております。ですが、腑に落ちない事もあります。殿にお子がなければ養子でも取らない限りこの家はお取り潰しになる。吉住とてそれくらいは分かっているでしょうに、何故旦那様のお体に障るような事をするのか……」
 紘蓮殿は私の呟きに顔をしかめた。
「幹子様、これは某の考えに過ぎませんが……ご家老はより良き家柄の養子を得たいがために、ご公儀に覚えめでたい八束のお家と縁を結びたかったのではないでしょうか?」
「……そうであったとしても、私やイネに対する仕打ちの理由が分かりません。単なる余所者嫌いで説明のつく範疇を超えています」
 しかし、紘蓮殿は私の疑問を打ち破った。
「人は追い詰められると気力が奪われ、まともに頭が働かなくなります。現に、今の幹子様がそうでいらっしゃる。輿入れされた当初は殿に歯向かう気概もござったが最近は殿やご家老にされるがまま、ご自身の死すら黙して待たれていると母から伺いました。ご家老は、そうして貴女様さえ意のままにしようとしているのではございませんか? 貴女様の病は病にあらず、この地を離れ安穏な日々をお過ごしになれば必ずや良くなりましょう。そのためにも、正式に離縁なされるべきです」

 紘蓮殿が言った事は至極真っ当で、あの時の私は何故彼に言われるまでこのような考えに至らなかったのか己が不思議でならなかった。
 けれど、今冷静に思い返せばその理由も紘蓮殿の言っていた通りなのだと分かる。
 朝永での私はもはや精根尽き果て、生ける屍と化していた……故に、私はいつの間にか己の力で状況を打破する事を諦めていたのだ。

「酒が……」
「幹子様、何ですか?」
 紘蓮殿が示した「離縁」という案は、私の鈍った思考を少しずつ回転させ始めた。
「酒が抜けると、旦那様はやや正気に戻られる事があります。晩の酒が少なかったりすると、酔いも浅いようで……」
「では、その時を狙い離縁状をお書き頂く事が出来れば……」
 紘蓮殿は目を細めて思案した後、私に尋ねた。
「……幹子様、ご家老が城を不在とする日は近々ございますか?」
「明後日、信州諸藩の国家老が松代で会合をすると聞いております。ここから松代までは遠いので、吉住は明日城を出ると」
「では、明日の晩はご家老の目を逃れられますな……」

 この後紘蓮殿は私にある「策」を授けた。
 酒を断つ事はもはや旦那様には叶わない。
 そこで、いつもの酒に水を混ぜて薄めたものを何食わぬ顔で旦那様に飲ませれば、いつもと同じ数の酒瓶を空けたとしても酒量は少なく、酔いも早くに覚めるだろう……これが紘蓮殿の策だった。
 酒に水を忍ばせる役目は、正室の世話係であるイネが台所にいては怪しまれるという事で雪が負ってくれた。
 あとは、私が一晩旦那様から与えられる苦行に耐え、明け方離縁状を請えば良い、それだけだった。

 けれども、この策は幾つもの「運」が重ならなければ成功しない危ういものでもあった。
 旦那様が酒の味の違いに気付いてしまえば、気付かれなくとも酔いが覚めた時に酒を求めて暴れれば、暴れなくとも離縁を認めなければ……失敗なのだ。
 そして、失敗すればその後吉住がどう出るか……考えるのも恐ろしかった。

 ……が。
 事は思いの外上手く運んだ。

「後生でございます、離縁して下さりませ……」
 血だらけの手を突いて頭を下げた私に、旦那様はどこかぼんやりとした調子で
「三行半か……」
 と呟き、昨夜私を脅し傷付けた懐剣を拾い上げると、
「医者に聞いた。其方、子の出来ぬ体だそうだな」
 と抑揚のない調子で言った。
「……申し訳ございません」
 
 酒狂いは、酒が切れるとやがて心身が酒を求める。
 手に入らないと癇癪を起こし酔ってもいないのに暴れ出す。
 そうなれば新たな手傷を加えられるやもしれない。
 いくら酔いが覚めているとはいえ、些細な間違いがいつ旦那様を豹変させるか分からないという不安と緊張感で、私の手は震えた。

 だが、旦那様は私に手を上げる事なく文机の前に座り、筆を執った。
 筆を置いた旦那様は、
 「これを持って何処へでも行け」
 と書状を差し出した。
 紙に包まず無造作に渡されたそれは紛れもない離縁状で、ご丁寧に日付けが入り旦那様の印まで押されていた。
 旦那様は相変わらず無関心な声色ながらも
「子の産めぬ正室に用はない」
 と私の心に刃を立て、離縁状をはらりと私の前に落とした。

「お世話になりました……」
 畳の上に落ちた離縁状を拾い、私は旦那様に深々とお辞儀をして寝所を出た。
 昨夜刻まれた背中の切創がきりきりと痛み、踏みつけられた腰は足を一歩出す度に鈍い痛みを走らせた。
 離縁状を握る手は廊下に出ても震えたままだった。
 あとは、旦那様の気が変わらぬうちに、吉住が帰らぬうちに、城を出るだけ……。

 離縁状を受け取ってから城を出るまではあっという間だった。
 イネが僅かばかりの荷物を、紘蓮殿が私をそれぞれ背負い、御殿を出た。
 すると、台所の裏口から出てきた雪が私たちの姿を見つけて駆けてきた。
「雪、貴女のお陰で無事に離縁状を頂けた。どれ程礼を申しても足りない」
 紘蓮殿の背の上から、私は雪に頭を下げた。
「無事にって……奥方様、昨夜も殿様に酷い目に遭わされたんでしょうに。袖口から覗いとりますよ、血糊のついた腕が」
 雪は私を痛ましそうに見上げた。
 慌ただしく御殿を出てきた私は最低限の着替えしかしておらず、血の付いた手を拭く暇もなかったのだ。
「でも、これで奥方様ももう痛い思いをしなくて済むんですね……道中の無事、お祈りいたします」
「かたじけない。雪、吉住に何を問われても、決して貴女が関わった事は言うな。もしも吉住を誤魔化せないようであれば、『見逃さなければ里の親を殺す』と私たちに脅されたとでも申し開きすればよい。決して如何なる責めも負ってはならない」
 私がそう告げると、雪は瞼を大きく開き口をわなわなと震わせた。
「んなっ、奥方様を悪者になど出来やしませんよ!」
「私は貴女に何の恩も返せないままここを去るのだ、どうかこの願いだけは聞き届けておくれ。では……息災でな」
「奥方様も……どうか、ご達者で」
 雪は唇を噛み涙を堪えながら私たちを見送ってくれた。

 城の大手門には門番がいたが、紘蓮殿が事前に袖の下を渡していたらしく、黙って開けてくれた。
 朝永の藩士は皆吉住の言いなり、いくら金を積まれても吉住には逆らわないだろうと私は懸念していたのだけれど、意外にも門番は紘蓮殿に背負われている私に憐れみの目を向けていた。
「私を外に出せば、貴方は吉住に罰せられるのではないか?」
 私が問うと、門番は俯いたまま
「確かに、お役目を解かれるやもしれません。ですが……私にはもうじき初めての子が産まれます。子に後ろめたい姿を見せながら武士を続けるよりは、前を向いて田畑を耕して生きる方が良いのではと、今はそう思っております」
 と答えた。
「……世話になった。息災で」
 私は門番にそう挨拶をした。

 こうして、私たち三人は夜逃げ同然とはいえ実に正当な理由で信州朝永の地を抜けたのだった。
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