第60話 三途の飯屋・壱

文字数 1,361文字

「ん……?」
 耳慣れない息遣いに重実の意識が呼び戻される。
 気付けば部屋の中は暗く、空気も嫌に冷えていた。
 紘子の傍で胡座をかいたまま、いつの間にやらひどく長い時間寝入ってしまっていたようだ。
 膝元には包まれた握り飯が置かれている。
 恐らくイネが気を利かせて彼を起こさずに置いていったのだろう。
 襖の隙間から差し込む薄紫の光が、今が夜明け前の最も静かな時である事を重実に教えた。
 しかし……。
「ひろ……?」
 紘子ははぁはぁと異常に苦しそうな呼吸音をさせながら下顎を上下させている。
 重実を呼び覚ました耳慣れない息遣いは、紘子のものだった。
 耳慣れない音ではあったが、重実はこの有様を二度見た事がある。
 二度とも……親の今わの際だった。

 父親の時は母を看取った後でもあり、もう長くないと知ってから覚悟を決めるまである程度の猶予もあった。
 故に父親のそうした姿を目の当たりにしても、心は落ち着いていた。
 しかし母親の時はそうはいかなかった。
 江戸に重実を剣術修行に送り出した時は病の気配など全くなかった母。
 突然の危篤の報せを受け慌てて戻った時には、既に母は意識がなく、こうして下顎ばかりを不自然に上げ下げさせてはぁはぁと息を吸おうとしていた。
 その後母は口さえ開かなくなり、呼吸も途切れ途切れになって……疲れ切ったように息を引き取った。
 城にいた従重は何日もの間お百度を踏み神仏に祈り、その間に多少の覚悟は出来ていただろうが、それすら出来なかった重実には母の死に際が受け入れ難い衝撃として今も胸の奥底にこびりついている。

 その母と、目の前の紘子が重なる。
 重実のトラウマが呼び起こされた。
(俺は、俺はまた喪うのか……? 何も出来ずに、ただ見ているだけで……)
「嫌だ……逝くな、逝くなよ……」
 震える声で呟くと、重実は部屋を飛び出し叫ぶ。
「誰か! 誰かおらぬか!」
「お殿様、如何なさりましたか!?」
 すぐにイネが着の身着のままで駆けつけた。
「蔓崎先生に遣いを! ひろが、ひろが危ない!」
「何と!」
 イネは最初こそ愕然としたものの、重実の目が落ち着きを失っている事に気付くと彼の両腕を掴む。
「医者様にはすぐに遣いをやります。お殿様は姫様のお側に。今の姫様を引き留められるのは、お殿様だけにございます。どうか、お気を強くお持ち下さいませ!」
「……っ」
 イネの毅然とした言葉に息を呑み、重実は
「分かった……頼んだぞ」
 と返し紘子のいる部屋に戻った。

 重実は紘子の傍に半ば転ぶかの如き勢いで座ると、布団を捲り、紘子の襦袢の袷に挟んだ櫛を抜く。
 そして、それを彼女の手に包み、その上からぎゅっと握った。
 咄嗟に思い浮かんだのは、初めて櫛を贈った時の紘子の反応だ。
 これまで見せた事のない顔をして喜んでいた紘子を思い出し、彼女の記憶に訴えようとする。
「なぁ、お前あの時嬉しそうにしてただろう? またお前のあんな顔が見たくて、性懲りもなく用意しちまった。早く目を覚まして見てみろよ、ひろ」

 それから、重実は何度も紘子の耳元で彼女の名を呼んだ。
 駆けつけた朔之進も思いつく限りの処置をした。
 だが、紘子の様子は変わらない。
(くそっ……まだ何かある筈だ、こいつの心に訴える何かが……思い出せ! 思い出せっ!)
 重実は歯噛みしながら己を叱咤する。
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