第34話 雨の中の告白

文字数 4,353文字

「八束……?」
 紘子の名乗った本名が旧姓であったのが引っ掛かり、重実はその名字を繰り返した。
(そうか……お殿様は、私が鬼頭幹子のままであると……)
「……鬼頭様からは、お亡くなりになる前に離縁状を頂いております」
「離縁状?それは、ひろの手元に?」
(「ひろ」……か)
 紘子は切なげな笑みを浮かべる。
 この暗闇では、どんな顔をしてもきっと重実にははっきりとは見えない。
 持て余す感情が面に漏れる事を気にする必要はなかった。
(お殿様は、私の素性をお知りになってもそう呼んで下さるのか……本当に、懐の深いお方だ)
 愛おしさが募る。
 そして、こうもありのままの自分を受け入れ信じてくれる重実に、やはり嘘は吐けないと紘子は改めて自覚した。
(きちんとお話ししよう……ただし、決して巻き込まないように……)
「……はい、あの離縁状だけが私が下手人でない事を証す唯一の物にございますので」
 一拍置いて、重実がふっと微笑を洩らす。
「思った通りだ。やはり、お前は人殺しじゃなかった。だが……」
 重実は真顔に戻った。
「お前に不利な状況が重なってる以上、その離縁状の使い方は誤っちゃならないな。確実に聞き届けられる場で突きつけないと……」
 そう言いながら、重実は紘子の肩をもう一寸抱き寄せる。
「そのためにも、ひろ……話してくれないか?かつてお前に何があったのか」
「お話しいたします。ですが……」
(お殿様は、私をお救い下さろうとしていらっしゃる。けれど、それはお殿様にとって何の利もない……むしろ危うい事だ。この方に嘘を吐かず、この方を守るには……)
 紘子は僅かに語気を強め、
「……ここで私からお聞きになったことは、今宵限りの悪い夢であったと、そう思ってお忘れ下さるとお約束下さい。でなくば、お話しする事は出来ません」
 と告げた。
「お前、何言って……」
「お約束下さいませ」
「……っ」
(こいつ、どこまでも俺を巻き込まないつもりで……)
 重実はぐっと歯を噛みしめる。
「……そんな約束、出来るかよ」
「ならば私からは何も……」
「もう言うな!」 
 紘子の答えを最後まで聞く余裕は、もう重実にはなかった。
 肩を抱き寄せるだけでは足りず、重実はとうとうその胸に紘子を強く抱き込む。
「お前は俺を遠ざける事で俺やこの家を守ろうとしているのかもしれないが、そんな事をして俺が納得すると本気で思ってるのか?お前はいつもそうやって自分を後回しにして……お前はそれで本当に楽しく生きていると胸を張って両親に言えるのか!俺は楽しくない、お前のいない日々など俺にはちっとも楽しくない!」
「お、お殿様、何を……」
 一度火が付いた想いは紘子の言葉を容易く遮った。
「殿様なんて呼ぶな。俺はお前の前じゃただの男だ……好いたおなごの頭に櫛差して浮かれるような、他愛もない男だっ」
 そこまで言い放ち、重実はぎゅっと両目を瞑る。
 対照的に、紘子の目は大きく見開かれた。
(……言っちまった)
(……え?)
 気まずい沈黙の中、激しい雨音だけが響く。
「それは……ど、どういう事で……?」
 紘子の声は、明らかに彼女の狼狽を表していた。
「どういう事って……そういう事だよ」
 重実もまた、あまりにしどろもどろな返答に内心呆れる。
(どうもこいつの前だと、いつも格好が付かない……)
(そういう事、とは……お殿様……重実様が、よもや私を……?)
「そんな……」
 紘子の口からようやく出た言葉もまた、何とも読めない一言だった。
(何だよ、迷惑なのか嬉しいのか、どっちなんだよ……)
 重実の中に不安が渦巻く。
 その不安が彼を饒舌にさせた。
「お前に惚れてんだよ……心底な。最初は物珍しさの方が勝ってた。俺や家臣が見つけられなかった誤りを刹那に見抜いた料理屋の下女、こいつは一体何者だろうかとな」
 それを聞いて紘子は唇を震わせる。
「それでは、あの松の間のお侍様は、やはり重実様だったのですか……?」
「『やはり』って……お前、気付いてたのか」
「いいえ……良く似てらっしゃると思った事はございましたが……」
 重実は何故かようやく喉の閊えが取れたような気がした。
「……まぁ、あの時は普段お前に見せてる格好じゃなかったからな。だが、次の日あづまで会ったのは、あれは偶然だ。偶然だから、俺は何か縁のようなものを感じたのだと思う。思えばその頃からお前の事が気になってたんだろうな……」
 そこまで種明かしをすると、重実は名残惜しげに紘子の体を離す。
 離れた体の間に入る空気が、紘子にはひどく冷たく、寂しく感じられた。
「……今まで正体を隠していて、すまなかった。騙すつもりはなかった……ただ、打ち明ける覚悟がなかなか出来なかった。打ち明けたら、お前が去ってしまう気がして。お前との縁が、切れてしまう気がして……って、回りくどいな。はっきり言う」
 懺悔の後、重実はふうと長く息を吐き出す。
「何処にも行くな、俺の傍にいろ。これ以上、何人にもお前を傷付けさせはしない。たとえ神仏が敵に回ろうと、俺はお前を守り抜く」
(どうしよう……)
 紘子は微動だにせず、無言で眉根を寄せた。

 嬉しいのに、辛い。
 幸いであるのに、苦しい。
 こんなにも愛おしいのに……悲しい。

 持て余す感情が嵐のように心を乱し、思考を奪う。
 言葉にしようと思っても説明のつかない矛盾した気持ちが積み重なるばかりで、鼻の奥がつんと痛んだ。 
(私は、どうすればいいのか……いいえ、どうしたいのだろうか……?)
 自問すればする程、喉が締めつけられる。
(もしも、二年前私が逃げずに早々に罪を被っていたら……)
 両親の後を追うように彼女もまた問答無用に首を斬られていたであろう。
 八束家は朝永藩主殺害の汚名を着せられ、罪人として世に知られ、やがて忘れ去られていくという道を辿るに違いない。
 それは、勤勉で清廉に気高く生きていた両親にとってどれ程無念な事だろうか。
 両親の気持ちを思ったら、自ら罪を被るなど到底出来はしない。
 やがては逃げ場を失い捕らえられる定めであったとしても、両親が生きた証を、己の中に唯一残ったものを誰かに授けたい……そう思って今日まで生きてきた。
 だが、峰澤に流れ着く前にこの世を去っていれば、重実と関わり合いになる事もなかった。
 ……恋情を抱いてしまう事も。
(やはり私はこのお方を巻き込みたくはない。重実様には私を奉行所に差し出して頂き、一切の関わりをなかった事にする……そうすれば、朝永からの手配人を捕らえた功でご公儀の覚えは良くなり、あらぬ嫌疑を掛けられる心配もないだろう。藩も、お家も、重実様も……私の首を差し出せば守れるのだ)
 そこまで考えて、紘子は悟った。
(そうだ……私にとって重実様は大切なのだ……自分の命を差し出す事を厭わぬ程に)
 だが、己の取るべき手段が見えているにもかかわらず、感情の整理は一向につかない。
(それなのに、重実様から永遠に離れてしまう事を考えると、こんなに辛い……このお方のために死ぬなら構わないと、思っている筈なのに……っ)
 いつしか止まった筈の涙が再び溢れてはぼろぼろと零れ出した。
 もうそれは雨とは完全に違うと分かる程に熱い。

 紘子の答えを待ちわびたのか、重実が口を開く。
「……足掻けよ、ひろ」
「え……?」
「俺と一緒に足搔け。お前の濡れ衣を晴らし、真の下手人を突き止めるために。諦めるのも、死を覚悟するのも、己を犠牲にするのも、その後だ」
 重実の言葉は静かにゆっくりと紡がれているのに、フレーズのひとつひとつが紘子の胸にずしりと響いた。
(私は……私は……)
「苦しい……」
「……ひろ?どうした、具合でも悪いのか?」
 思わず零れた心の声を拾った重実は、慌てた様子で紘子に尋ねる。
 だが、紘子は首をふるふると横に振り、
「この胸が……心が……二つに裂かれるようで、苦しくて、辛くて……たまらないのです……」
 と嗚咽混じりに答えた。
「それなら……」
 重実は再び紘子を抱き寄せた。
 今度はそっと包み込むように。
 そして、濡れそぼった紘子の後頭部を大きな手の平で支え、彼女の顔を己の胸に優しく押し当てる。
「何も考えずに、俺の手を取ればいい。約束しただろう?お前の歩みが止まるなら、俺がお前の手を引くと。何処までだって引っ張ってやると。それとも、俺じゃ心許ないか?」
「いっ、いいえ……いいえ……っ」
 紘子は小刻みに何度も首を振った。
「なら、余計な考えは涙と一緒に全部流せ。抱えているものも全て」
「で、ですが……っ」
 重実は紘子を抱く腕にゆっくりと力を込める。
「言っただろう?俺を信じろと」
 抱きしめる腕の力は徐々に強くなっていくのに、耳元に囁かれる声や吐息は驚く程優しいままだ。
「大丈夫だ、俺が全部受け止める」
 重実の優しさが、波となって紘子の苦しみを攫っていった。
(このお方になら、私の全てを預けられる……このお方となら、私は私でいられる……生きたい、足搔いてみたい……重実様の傍で、生きていきたい……!)
「ふっ……うう……あああ……っ」
 紘子は重実の背に腕を回し、初めて声を上げて泣き崩れた。
 嫁いだ夫に終ぞ感じる事のなかった感情。
 誰かを愛するとは、こんなにも苦しくて、辛くて……満たされるものなのかと、紘子は初めて味わった。

 やがて、泣き疲れた紘子は重実に抱きついたまま徐ろに口を開く。
「私も、重実様を……心からお慕いしております」
「っ!」
 ぽつりと囁かれた一言に、重実は思わず硬直した。
(こ、こいついきなり何て事を……!)
「そ、そうか……」
 気の利いた台詞が出てこない。
 本来なら舞い上がる程嬉しい事なのだろうが、あまりに大きい喜びというものは人を戸惑わせるものだ。
(参ったな……恥ずかしくもないのに顔から火が出そうだ)
 つくづくここが暗くて良かったと重実は思う。
 だが、紘子は彼の動揺に気付いていないようで、淡々と言葉を続けた。
「ですから……足搔きます。貴方様の手を決して放さずに、何処までも……」
(……やはり、こいつは強い)
 紘子の決意を聞き、重実の落ち着かない気持ちはようやく静まる。
 彼は彼女の頭をそっと撫でながら、
「ああ、お前のその決心、絶対に無駄にはしない」
 と微笑んだ。
 雨足は多少弱まったものの、木々の葉を叩く雨音はいまだ激しい。
 そんな中でも、紘子の声は掻き消される事なく重実に届く。
「少々、長い昔話をいたします……」
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