第74話 意外な一面・弐

文字数 2,623文字

「……んんっ」
 重実は咳払いしながら今度こそ障子を閉め、紘子の前に座り直した。
「騒がせたな。あれは小平次と言って、忠三郎の末息子だ」
「ご家老様の?」
「ああ。忠三郎が何としても連れていけと煩くてな」
 重実は苦笑しながら続ける。
「此度はこれまでの一人旅と違ってお前とイネを連れて歩くだろう? 万に一つ山中で賊にでも囲まれたら、さすがに俺一人では心許ないと忠三郎に言われた。小平次はまだまだ元服前の小童だが、あれで相当腕が立つ。まともにやり合ったら、俺も一本取られるかもしれん。まぁ、忠三郎の言い分ももっとも故、連れてきたが……やはり幼さが残るせいかどうにも落ち着きがない」
「若武者はそれくらいでありませんと」
 そう返しながらくすりと笑う紘子を、重実はようやく普通に見られるようになってきた。
(やっと目と心が慣れてきた。それにしても……)
 重実は再び紘子の頬に触れる。
「……多少はふっくらしたか。ちゃんと俺の言いつけを守ってくれたな」
 嬉しそうな重実の言葉と笑顔に、紘子は一度冷めた熱が一気に再燃したかのように紅潮し、つい俯いた。
「おい、俯けるな。ようやくお前の顔を見られたというのにお預けを食らわせるなよ」
「そ、そのようなつもりは――」
「――ん?」
 紘子が身じろいだ拍子に彼女の背後から萌葱色の何かがちらりと見え、重実の視線がそちらに移る。
「ひろ、それは何だ?」
(しまった……! 仕上がったかどうかまだ検めもしていないとうのに……)
 重実が来るギリギリのところで全て縫い上げたとはいえ、最終確認が出来ていない。
 しかし、重実相手にこのような場面で上手く隠し立て出来るほど己が器用ではない事を紘子は既に自覚している。
(こうなれば是非もなし。お渡しして心のままにお伝えしよう……)
 紘子は背中に隠し置いた萌葱色の布を軽く整えながら恐る恐る重実に差し出した。
「た、旅支度のお礼にございます……」
「……俺に?」
「はっ、はい」
 重実は狐につままれたような心地で受け取り、布を広げる。
 そして、数秒目を見開いたまま絶句した。

 彼の手の上にあるのは、立派に仕立てられた萌葱色の羽織だった。
 深く鮮やかな緑のそれは、しっかりとした質感ながら肌触りは柔らかく、織目も細やかに整っており明らかに上質な反物から作られたのだと分かる。
「お前が……縫ったのか?」
 これからどんな反応が返されるのかと気が気ではない紘子は、重実がようやく発した一言に視線を右往左往させながら
「……恐れながら」
 とだけ答えてきゅっと唇を噛んで押し黙った。
 その様子に重実の胸が騒ぐ。
(待て……無理やり朝永まで連れてこられて今に至るこいつに、どうやってこんな上物を手に入れられたんだ? 今のひろは無一文だ。ならばイネか? ……いや、尾張で肩身の狭い暮らしをしていたイネにそんな余裕はなかった筈だ。ここまでの路銀を用立てるだけでも難儀だったに違いない。ならば……よもや、こいつ身を売ったか? ……って俺は阿呆か! ひろがそんな事をするわけがないだろう! だが……松代の城代家老に恩義を感じて断りきれなんだ等という事も……いやいやいやいや!)

「重実様、どうしたのですか……?」
 茫然と羽織を見つめたままの重実に不安を感じたのか、紘子が眉をしかめながら問いかけた。
 その声にはっとして、重実はふるふると首を横に振り、意を決して紘子に訊ねる。
「ひろ、この布はどこで……?」
「佐原屋殿にお願いしました」
「は?」
 いくら重実が「上客」だと言っても、それだけで客の女にただで反物を用意するほど商人は甘くない。
 ますます分からなくなり唖然とする重実に、紘子は順を追って話し始めた。
「重実様からの贈り物を頂いた後に、佐原屋殿にお話ししたのです。良い反物があれば羽織のひとつも仕立てて重実様にお渡し出来るのだが、生憎私には反物代すら用立てられない、それが歯痒いと。そうしましたら、佐原屋殿が丁稚への手習いの給金として反物を用意して下さると仰って」
「手習いの、給金?」
「はい。佐原屋殿のところには、齢七つで読み書きも算術も出来ぬ丁稚が一人おりまして、その子に多少なりともここでそれらを教えてほしいと。何日か手習いを施して、そのお給金として羽織を作る反物を頂きました。もちろん、城代家老様のお許しは頂いた上です」
「……して、その丁稚はどれほどになった?」
 打って変わって真剣な面持ちで尋ねる重実に、紘子も思わず背筋を伸ばして答える。
「かなを全てと、易い漢字を読み書き出来るように。算術の方は、釣り銭の勘定が出来る程度には」
「ものの数日で、お前はそこまで丁稚を伸ばしてやったのか」
 瞠目する重実に、紘子は謙遜の苦笑を浮かべた。
「あの子の筋が良かっただけです」
「そう言うな。佐原屋もさぞ喜んだだろう?」
「それは……はい。反物ひとつで丁稚が早く育って安上がりだと」
「だろうな。佐原屋め、随分と得をしたな」
 冗談を口にしながらも、重実の心は例えようのない感動で膨れ上がり、今にも弾けそうだった。
 一度は生死の境を彷徨った紘子が子供に手習いを施せるまでに回復した事、僅か数日の指導で読み書きも算術も知らぬ子供にそれらの基礎を身に着けさせた彼女の手腕、己の才覚で難局を乗り切ろうとする紘子の底力、そして何より……
(俺のために……俺に、これをくれるために……)
 重実は感慨深げに羽織を見つめ、愛おしそうに胸に抱く。
「俺は、お前に貰ってばかりだ……」
「何を仰るのですかっ。櫛に、着物に……言葉に出来ぬ数多の想いまで、頂いてばかりなのは私の方です」
「いや」
 重実は頭巾の上から紘子の頭に触れた。
「お前は、俺にかけがえのないものを沢山くれている。沢山な」
「重実様……」
 触れた指先は、微かに髪を梳く時の感触に似ている。
 重実が紘子の髪を梳く時は、心が乱れている時。
(きっと、今も抱えきれない何かを取り落とさぬように懸命なのだろう。お心が揺れて、膨れているのだろう。けれど……)
 軽く見上げてみれば、重実の面は穏やかだ。
(今の重実様は、その乱れを嫌っていない様子。今このお方の心に溢れそうなものは、きっと辛く苦しいものではないのだ……)
 そう思えたら、自然と紘子の顔にも笑みが浮かんだ。
(……全く、どこまでも愛らしい奴め)
 重実は満たされた心地で羽織を広げ、
「着てみてもいいか?」
 と紘子に問う。
「はい!」
 浮かべた笑みを一層深めて紘子は頷いた。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み