第79話 見上げた月は塗り替える

文字数 3,855文字

 紘子を抱えて廊下代わりの縁側に出た重実は、そっと部屋の襖を閉めた。
 今は子ノ刻を過ぎた頃だろうか、旅籠の中は静まり返り時折響く虫の音が余計に夜の静寂を彩る。
 人の気配のない縁側で、重実は閉めたばかりの襖を背に紘子を抱えたまま腰を降ろした。
 頑なに重実の肩口に顔を埋めている紘子の右手は小刻みに震えながら、重実が夜着の上に羽織った羽織の奥襟辺りをぎゅっと握っている。
(まるで恐ろしい夢でも見た幼子のようだな……ひろがここまで怯えるものとなると、鬼頭か吉住か、両親の非業な死か……)
 重実は何となくそう察するものの、実際紘子の心の内にどんな光景が映っているかまでは推し量れない。
 ただ、平時の紘子ならこうもしがみつくなど恥じらいでそうそうしないだろう。

 紘子は両の瞼をきつく閉じ、重実から離れまいと必死で彼の羽織を握りしめていた。
 左手は重実の首に回すことは出来ても自重を支えるほどの力は出ず、代わりに右手の指を精一杯重実の羽織に食い込ませる。
(怖い、怖い……どうか私を独りにしないで……)
 誰にも言えない、決して口に出来ないそんな言葉を、心の奥底でこれまで何千、何万繰り返してきただろうか。
 鬼頭家への輿入れが決まった時、朝永で惨い仕打ちを受け続けた日々、手配人として追われるようになってからの毎日……いつでも「心の叫び」を受け止めたのは己一人だった。
 名のある旗本の娘として、大名家に嫁いだ者として、誰かに縋るような弱音を吐くなど出来なかった。
 しかし、それはまだまだ若い女子が一人で背負うにはあまりに重すぎる荷だった。
 ありのままを晒していい存在、弱さを隠す必要のない存在が出来てしまったからだろうか、呑み込み続けてきたものが今無言のまま露わになっている。

「今宵の月は見事だな」
 夜空を見上げながら、重実が紘子の耳元で囁いた。
 紘子の手の震えが止まったことに気付いた重実は、
「……ほら」
 と紘子を促す。
 重実からゆっくり顔を離した紘子は、言われるがままに空を見た。
 雲ひとつない夜空に、いつもより大きく見える月が丸々と輝いている。
(綺麗……)
 思わず見とれながら、ふと思う。
(こうして月を見上げるなど、いつぶりだろうか……)
 八束の家では毎年両親や父に仕える陪臣らと月見をしたものだった。
 思えば、両親と離れてからというもの、そもそも空を見上げることなどあったろうか。
(私は、ずっと俯いて生きていたのだろうな……)
「真に、良い月です……」
 尊いものを見るかのように目を細めた紘子に、重実は月を見上げながら
「だが、月の使者なる者の姿が見えんな。来れば俺は一戦交えるつもりだったが」
 と言ってニッと笑った。
「……はい?」
 紘子はきょとんとして重実を振り返る。
 重実と視線が交わった。
「ん? 確か、竹取物語では月の使者が空から雲に乗ってかぐや姫を迎えに来たと思ったが……何かおかしいか?」
「い、いいえ、それはそうなのですが……あの、そうではなくて……」
 竹取物語では、月の使者はかぐや姫を迎えに天上からやってくる。
 その話に見立てて重実がこの状況を語っているならば……。
(よ、よもや私のことを、そのように見ていると……?)
 重実が言わんとしていることに気付いた紘子の頬は、月下の夜闇でも分かるほど色付いた。
 これに重実はますます気を良くする。
「かぐや姫が俺の手の中にあるというのに、何故月の使者は出てこないんだろうな? 俺とお前があまりに睦まじくしている様を見て諦めたか?」
(ああ、やはりそうだった……私をかぐや姫などと……重実様はどうかしているっ。 けれども……)
 抱いているのは反抗心の筈なのにそれはひどく甘くて、胸の奥を嬉しさでむず痒くさせた。
「わ、私は『容貌のけうらなること世になく』と言える見目ではありません……」
 紘子は苦し紛れにそう返して俯いてみるが、重実は微かに苦笑しながら彼女の顎に指を添える。
 僅かな力で優しく紘子を上向かせ、柔らかな眼差しを愛おしげに注ぎながら重実は口を開いた。
「この上なく『光満ちて、苦しき事もやみぬ』容貌だが?」
「え……」
 顎に添えられた重実の指が、紘子の頬を撫で上げこめかみで止まる。
「俺を真っ直ぐに見つめるこの曇りなき眼も、美しく筋の通った鼻も、俺が何か言う度に桜色に染まる頬も、嬉しそうに綻ぶ口元も……」
 大きな手の親指の腹が紘子の鼻先に触れ、頬に移り、やがて人差し指の背が唇をなぞるように這うのを、紘子は瞬きも忘れて受け入れた。
 重実の指先から伝わる温もりに酔っているかのように。
「……だが」
 重実の手は紘子の片頬を包む。
「お前は何より心が『けうら』だ。つまるところ……俺はお前の全てに惚れているんだ」

 ……こうも温かく優しく、それでいて激烈な感情を幾度もぶつけてきた人がかつていただろうか。
(重実様……っ)
 体の奥にある芯がふつふつと煮立つような感覚に囚われたが最後、紘子の中で欲情が理性と恥じらいに勝る。
 紘子は重実の背に両腕を回し、ぎゅっと抱きついた。
(私はこのお方がどうしようもなく好きだ……誰に何と言われてもいい、好きなのだ……! お慕いしているだの、お傍にいたいだの、お支えしたいだのという小綺麗な言葉で片付けられる想いではもはやない。この、胸の奥から、腹の底から湧いてくる気持ちは、もっともっと身勝手で歪んだ醜いものだが……それでも何より正直だっ)
「ひろ!?」
 突然の強い抱擁に、重実は瞠目する。
 更に……。
「何も言わないで下さい。離れ難くて、己の気持ちに歯止めが掛からないのです……っ」
 感情のままに紘子が放った言葉が、彼の男としての本能を激しく揺さぶった。
(いや、そこは歯止めを掛けろ! 俺の方がどうかしてしまうっ!)
 重実は、とりあえず左腕は紘子の背に回したが、利き腕の右は一瞬でも気を抜けば彼女の襦袢に手を掛けてしまいそうで、完全に行き場を失い宙を舞う。
 ……紘子に悟られぬよう黙って悶絶していること暫し。
「重実様……」
「あっ、ああ……何だ?」
 我ながら不自然な返事だと内心呆れる重実に、紘子は抱きついたままぽつりと呟いた。
「温かい……」
 心底気を許したような声色の呟きに、重実はどうにも気まずい。
(ああ……己がこうも浅ましい男だったとは、情けない)
 紘子が求める温もりと己の本能が求めるそれが全く違っていることに改めて気付かされた重実は、息を吐くように苦笑を漏らすと、
「夜風に当たって冷えたか?」
 と、羽織を脱いで紘子に被せる。
 そうして冷静さを取り戻すと、重実は紘子を部屋の外に連れ出した本来の目的を思い出した。
「『辛きこと、悲しきこと、恐ろしきことあらば、嬉しきこと、楽しきことで塗り替えればよろしいのです』……昔、よく母に言われたものだ」
「お母上様に、ですか?」
 紘子は重実の胸から顔を離し、彼を見上げる。
「ひろ、深くは問わん……だが、もしも宿での寝泊まりがお前に何か恐ろしいものを思い出させるのなら、その思い出を今宵俺と月を見たことで上塗りしてはどうだろうか」
「思い出を、上塗りする……?」
「ああ。さすれば、お前はこの先宿に泊まる度に俺と月見をしたことを思い出す。上塗りが出来なくとも、心の片隅にそっと置いておくだけでもいい。いずれは宿の寝泊まりも苦にならなくなるだろう……と言っても、俺の目が黒いうちはお前が一人で旅籠に泊まるようなことはないだろうがな」
 胸の底にずしりと重く鎮座している冷たいものがゆっくりと溶かされていくような不思議な温かみを紘子は感じた。
(重実様は、いつもこうして私に辛苦を乗り越える(すべ)をお与えになる。それは(はた)から見れば私に逃げることをお許しにならない惨いものかもしれない。けれども、私は知っている……重実様はいつだって私とともに乗り越えようとして下さる、決して私を独りにはしない)
 紘子は再び重実の胸に顔を(うず)める。
 羽織と夜着から、微かに白檀の匂いがした。
(重実様の匂いと温もり……私にとって、重実様の傍はどこよりも心の安らぐ場所だ)
「重実様、私はきっとこの日の本の誰よりも幸せ者です……」
 今にも消え入りそうな声と吐息が重実の胸をくすぐる。
 懸命に生きながらも時に縋ってくる紘子の姿が、たまらなく愛おしい。
「それはどうだろうな……悪いが、たとえ相手がお前でも日の本一の幸せ者の座は譲らん。俺の方が、お前にもっと沢山の幸いをもらっている」
 紘子がクスッと笑ったような気がした。
 少し間を置くと、重実は今度は改まった様子で口を開く。
「ひろ、せっかくなら……いっそ、もっと幸せになってみない……か? お前さえ良ければ、俺はお前を……その、あれだ……つ、妻にしたいと……」
「すー……」
「『すー』?」
 重実は僅かに紘子を己から離してみた。
 紘子はすーすーと寝息を立てながら、しかも少し揺らしただけでかくんと首が反っくり返るほど熟睡している。
「ひろ、ひろ、おーい……」
「すー……」
(ああ、駄目だ……これは随分と深く寝入っている。それもそうか、思うままにならぬ体で慣れぬ旅路を歩んだんだ。俺たちよりも遥かに疲れてるよな。だが……)
「……少しは俺に食われるとは思わんのか? これでも俺も男だぞ?」
 ため息交じりに出された問いの答えは、紘子の安心しきった寝顔が物語っている。
(まぁ、それだけ信を置かれているということなんだろうがな……)
 重実は腕の中の紘子を起こさないよう静かに立ち上がり、月明かりを背に部屋へと戻った。
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