第52話 死の淵に・参

文字数 2,724文字

 重実と親房ははっと顔を見合わせる。
「通してくれ」
 確信を持って重実が下女にそう告げると、階段を踏む音の後に襖が開き、肩を上下させながら勝徳が紘蓮を伴い姿を現した。
「馬を飛ばしましたが、何分少々寄り道を避けられず……お待たせして申し訳ございません」
 息を切らしながら詫びる勝徳を部屋の中に促すと、重実は湯呑みに白湯を汲んで二人に差し出す。
「……かたじけのうございます」
「勝徳、こちらの僧は?」
 重実は紘蓮に軽く目だけで挨拶をしながら、湯呑みを受け取った勝徳に尋ねた。
 勝徳はひと口白湯を喉に流し込み答える。
「聞いて驚け、でございますよ、殿。何と紘子殿を朝永から連れ出された僧、紘蓮殿でございます」
「なっ……」
 重実は親房と視線を交わし、紘蓮を見ては勝徳に視線を戻し……とその目を忙しなく動かした。
 そして、紘蓮に早口で問う。
「峰澤藩主の清平重実という。紘蓮殿、急ぎ一つお尋ねしたい」
 紘蓮が頭を下げたまま
「何なりと」
 と返すと、重実の隣にいた親房が松代雑記を開き紘蓮に差し出した。
「私は幕臣の田邉親房と申す。これは松代藩が幕府に送った雑記であるが、ここに二年前の弥生二十五日の家老と僧の会話が書かれている。会話によれば、其方が大名の奥方を連れ出したとあるが……それは真に弥生二十五日よりも前の話であるか?」
 紘蓮は即答する。
「相違ございません。私が幹子様を朝永の城からお連れ出しましたは、忘れもせぬ弥生二十四日の事にございます……唯一、拐かしの一点だけは誤りにございますが」
 親房は口角を上げた。
「左様か。確かに拐かしたというのは随分と尾ひれのついた話ではあるが、ひとまずこの雑記に書かれた事はほぼ真であると分かった。公儀への届け出によれば、鬼頭貞臣殺害はそれよりも後に起こったとされている。紘蓮殿の言を裏付ける証はないが……ひとまず使える手札が一枚増えた事に変わりはないな」
「ええ。勝徳、よくやった」
 重実に褒められた勝徳は「へへっ」とはにかんだような笑みを浮かべた後、懐から書状を取り出す。
「それから、こちらは従重様よりお預かりして参りました」
「従重から?」
 重実は訝しみながら書状を開けたが、中から出てきたもう一通の書状に目を見開いた。
「ひろの……離縁状!」
「何だと?」
 親房も瞠目して書状を覗き込む。
 重実は離縁状の中身を確認した。
「鬼頭貞臣に幹子、両名の名も確かにある……」
「そこに押されている印も、公儀への書状にあったものと同一のようだ。正真正銘の離縁状と見て間違いなさそうだな。日付けも……」
「弥生二十四日」
 親房と声を重ね、重実は勝利を確信する。
 だが、それが何故従重から届けられたのか。
 重実はどうにもそこが腑に落ちなかったが、勝徳に言われるがまま従重がしたためた書状に目を走らせ、ようやく合点が行く。
 そして、舌打ちと共に呟いた。
「あの野郎……」
「如何した? 重実」
 眉を顰める親房に、重実はそっと従重の書状を渡す。
「離縁状を見つけた事は『よくやった』とでも言ってやりたいところですが……どうもとんだ厄介事を引き起こしているようで」
 書状を読んだ親房の表情が曇った。
「確かに……上手く誤魔化さんとまずいな」
「全くです。よりによって大名家の者が、しかも藩主の弟が謀反人と関わっていたなど……」
 室内に暫しの沈黙が流れる。
 紘子の離縁状が手に入ったと同時に、従重が由井正雪に接触したという「爆弾」も抱えるはめになり、重実と親房は思案した。
「まずいと言えばまずいが……」
 先に親房が沈黙を破る。
「書状の限りではまだ従重が何かをしたというわけではなさそうだ。従重を『公儀が秘かに差し向けた密偵』とすれば、当座は誤魔化しも利く。後々どう転がるかはさすがに何とも言えんがな……。とにかく重実、これは我々にとっては良い追い風となろう」
「はい。離縁状が手に入った上に、元家老の吉住には謀反の疑い……俺にとっても、田邉殿にとっても懸案を片付ける千載一遇の好機ですね」
 親房の言葉で重実もどうにか考えを切り替えた。
 すると、
「であれば殿、田邉様、追い風には急ぎ乗られた方が良いかと……」
 と勝徳が続ける。
「ここまでの道中に、新たな触書がございました。紘子殿の裁き、明日開かれると」
「まぁ、そろそろだろうとは思っていたが……勝徳、危うかったな」
「全く、間一髪とはこの事でしょうな。寄り道をあと一つでも増やそうものなら間違いなく間に合っておりませんでした。ですが、安堵は出来ません。触書に集まった野次馬どもの会話を小耳に挟んだのですが……」
 勝徳の表情が険しくなった。
「ここのところおなごの悲鳴のようなものが奉行所から漏れ聞こえていたものの、昨日辺りからさっぱり聞こえなくなったと。紘子殿が相当に弱られているのか、或いはあらぬ罪を認めてしまったか……いずれにせよ、旧朝永の連中はここに来て裁きを急いでいるに相違ございますまい」
 重実は奥歯を噛みしめる。
「ひろの無実を証明するものは、この離縁状と田邉殿がお持ちの品。従重を密偵に仕立て上げ謀反の線から攻めたとしても、まだ吉住の優位は崩せんかもしれないな。向こうは『地の利』――領民からの支持――を利用するであろうし、何せ『証拠の品』まで奉行所に出してやがる。俺たちが証拠の簪がひろの物でない事を証すのは難しい。無論、こちらは手持ちの札だけでもひと勝負出るつもりではいるが……」
 重実は攻めあぐねるかのように口に手を添え考え込むが、それに対し勝徳はふっと息を吐き口元を緩ませた。
「ご安心下さい。この勝徳、伊達に『寄り道』はしておりません。こちらの紘蓮殿を含め、当時を知る『証人』を幾人か手配してございます」
 勝徳の自信ありげな声色に重実は目を見開き、僅かな安堵を覗かせる。
「……お前という奴は」

 頼れる存在のお陰で心のゆとりを取り戻した重実は、離縁状を元あった包みの中にしまおうと包み紙を返した。
 その時……。
「……っ」
 目に飛び込んできた紘子の句に、重実の手が止まる。
(あいつ……)
「重実、如何した?」
 包み紙を凝視したまま絶句しているところに親房が声を掛けたが、重実は
「……いいえ、何でもありません」
 とだけ答え、離縁状を包み紙に戻さず従重の書状と共にしまうと、空の包み紙だけを懐に入れた。
(唯一無二の大事な椿、落としてなるものか……お前の存在を、無かった事になどするものか……。待ってろ、ひろ。必ずお前を連れて帰る)
 ……秘かにそう決意しながら。
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