第68話 慟哭を届けん・弐

文字数 2,726文字

 二年前に旧朝永藩で起こった藩主殺害事件。
 重実はまさにその真犯人から真実を聞かされた。
(恐らくそうであろうとは思っていたが……)
 堪えかねた家臣の何者かが手に掛け、家老が庇った……そうした可能性も重実は心の何処かに据えていた。
 吉住が如何に武士の風上にも置けぬ者であろうと多少なりとも人らしい情を垣間見る事が出来れば、せめて斬首を切腹に変え武士の情けとして最期を見届けようとも考えていた。
 しかし、結局吉住は何処までも己が可愛い下衆でしかなかった。

 重実は視線を下げ、ひどく事務的に告げる。
「子細、よく分かった。聞く限り嘘偽りもなかろう。先に告げた『遠方に発ってもらう』件は、他の罪人に聞かれると公儀としても都合が悪い故、牢も替えた上で後ほど内々に伝える。下がれ」
 重実の真意など知る由もなく、吉住は恭しく一礼すると役人に縄を引かれながら去っていった。

 この晩、吉住は大名格の罪人が入るような独居の座敷牢に移された。
 ちょうど晩の食事が運ばれる頃に、重実は座敷牢を訪れる。
「吉住、例の件について話しに来た」
 役人に鍵を開けさせ重実が入牢すると、吉住は卑しい笑みを浮かべ頭を下げた。
 程なくして、役人が吉住の食事が入った膳を運び入れる。
 役人が下がったところで、重実は口を開いた。
「構わん、食せ。話は食いながら聞けばよい」
「では、失礼をば……」
 吉住が箸を持ち汁椀を手にする。
「実は、貴様宛てに一つ言伝を預かっておる」
 汁を口に含みながら吉住の視線が重実に向いた。
 吉住の喉仏が上下し嚥下したのを秘かに確認した重実は、すぅっと目を細める。
「八束幹子からだ」
「幹子様から? はて、どのよう……なっ……!?」
 それから先は言葉にならなかった。
 吉住は目を大きく見開き、
「っ、かっ……かはっ……」
 と掠れた呻きを上げながら体を傾ける。
 畳に横倒しとなった吉住を見下ろす重実の声に、静かな怒気が宿った。
「父を返せ、母を返せ、それが出来ねば地獄に堕ちろ――とな」

「何を申し上げたところで、父と母が生き返るわけではございませんから」

(ひろ、あの時のお前の言葉は、そういう意味なんだろう?)
 抱き寄せた紘子は、重実の問いに対しあの時確かに数瞬の間を置いてそう答えた。
 その僅かな間の沈黙こそ、紘子が上げた声なき慟哭だった……重実はそう思っている。
(何をどう叫んだところで両親は生き返りはしない……裏を返せば、それは叫びたいという事だ。叫んで叫んで、泣いて喚きたいんだ……っ。だが、あいつは賢い故に、誇りが高い故に、そして何より強く優しいが故に、そうしなかった。ならば、俺があいつの想いを汲んでやらないといけないだろう。あいつの心の叫びを、慟哭を、こいつに叩き付けてやらなきゃならんだろう!)

「お、のれ……謀ったな……っ」
 吉住が血走った目で重実を睨む。
「馬鹿を申すな。俺は武士だ、相手が如何に下衆であろうと偽りなど口にはせん。地獄はここから遥かに遠方であろう。一服も楽な死に方ではなかろう。どうだ、俺の言葉に偽りはなかろう?」
「し、死にたくない……死に……たく……ごぼぁっ」
 重実の口から出た「地獄」の一言に恐れをなしたのか、吉住は血を吐きながら這いずり重実の袴の裾を掴んだ。
 重実はその手を払おうとはせず、そのまま見下ろす。
「……なぁ吉住、苦しいか? ああ、苦しいだろう。だがな、あいつはもっと苦しんだ。それでもあいつは貴様に言う事は何もないと言った。その一言を、あいつはそれこそ血を吐くような思いで俺に告げたに違いない」
 重実の口調は調べの時と大差無い淡々としたものだった。
 しかし、言葉の端々からは隠されていた激情が溢れ出している。
 喉を焼き千切られるような感覚の中、吉住はようやく気付いた。
(あの女の相手が、弟ではなく兄の方だったというのか……! 私が、この私が此奴(こやつ)の本性を見抜けなんだとは……っ。いや、此奴が(したた)か過ぎるのだ。あの御しやすい弟とはまるで違う。だが、此奴の口ぶり……幹子様を手に入れようとすればどうなるか、まるで見えておらん。このまま死んでたまるものか……私だけが地獄を見るなど認めん、貴様にもやがて地獄を味わってもらうぞ……!)
 吉住はかすみ始めた視界に抗うかのように目を剥いた。
「お、ろか……者が……八束の、血の……呪いも、知らずに……」
「八束の血が家を滅ぼすとでも? たわけ。鬼頭家は自ら落ちぶれた、清平家を一緒にするな」
 すると、吉住は血塗れの口元を歪め気味悪く笑った。
「くっ、くく……っ。先を……見通せぬ……若造が……。お……まえは、全てを……失うぞ……」
 そこまで言うと、吉住は大量の血を吐き痙攣する。
「何とでも言え。全てをなくそうと俺はあいつの手を放さん。貴様など、極楽浄土にいるであろう八束夫妻には到底目通り叶わぬが、せいぜい地獄から夫妻に詫びる事だな」
「……」
 やがて吉住はぐったりとして動かなくなった。
 生臭い血の臭いにも眉ひとつ動かさず、重実は袴の裾からそっと吉住の手を解くと、目を剥いたままの吉住の首筋に触れる。
(……事切れたか)
 吉住に脈がない事を確認すると、重実はまるで何事もなかったかのように踵を返し座敷牢を出た。

「……終わったか」
 座敷牢を出てすぐの所で待っていた親房が声を掛ける。
「ええ……」
 視線を廊下の床に落としたまま、重実は答えた。
「如何した? 吉住に呪詛でも食らったか?」
 死を前にした人間は何を口走るか分からない。
 親房は吉住が重実を追い込むような何かを言い残したのではないかと案じたのだ。
 数秒迷ったように唇を噛んだ後、重実はようやく親房と目を合わせる。
「……八束の血の呪いで、俺はこの先全てを失うと。奴には勢いで返しましたが……どうにも胸騒ぎが」
「『八束の血』か……江戸城内ではそうした悪しき噂を聞いた事はないな。佐野の父に何か心当たりがないか聞いておこう」
 親房は罪人の妄言とあしらう事なく真剣に取り合った。
「かたじけのうございます」
「礼には及ばん。元はと言えば佐野の父が関わっていた事。加えて、お前はこの一件で墓の下まで持っていくものが随分増えた……違うか?」
「……」
(参ったな……田邉殿は全てお見通しか)
 親房の問いに、重実は苦笑で返す。

 紘子の本音を叩き付けた事も、吉住を斬首の代わりに獄中で服毒死させた事も、吉住が言い残した事も……重実は全て伏せると決めていた。
 鬼頭貞臣殺害の真相と吉住に死罪の沙汰が下り刑に処された事、これだけを紘子に告げるつもりなのだ。

「これ以上お前の荷を増やすは忍びない。私で力になれる事ならばいくらでも助力する」
 親房はそう言うと、重実の肩を軽く叩くのだった。
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