第86話

文字数 643文字

 ふと、コーヒーを飲む杏さんを見つめる蒔田が目に入った。椅子にゆったりと腰かけ、柔らかな頬をしている。いつもはふざけたり格好つけたりしているから、蒔田の頬はせわしなく動いたり膨らんだりして忙しいのだ。くつろいで黙っていると、おちゃらけた雰囲気が影をひそめ、蒔田は三割増しに格好良くみえる。

 (ただでさえ格好いいのに、やめてくれよ。)

 蒔田の視線に気が付いて、杏さんが顔をあげる。

 「あちっ!」

 目が合って驚いてしまったのだろう。まだ熱いコーヒーが口に流れ込んでしまったようだ。あわててカップを口から離すと、今度はコーヒーが鼻に付いてしまって慌ててペーパーナプキンに手をのばす。

 ああ、なんということだ。きっと蒔田は杏さんの鼻を笑って拭いてあげるだろう。うぶな杏さんのことだ。そんなちょっとしたことで、蒔田に心を奪われてしまうとも限らない。

 ところが事態は僕の予想を超え、鼻を拭いてあげることなどよりも、はるかにやっかいな方向に進み始めてしまった。
 杏さんはペーパーナプキンでコーヒーをぬぐい取り、蒔田を見て照れ隠しに笑った。蒔田はコーヒーカップに手を伸ばしたが、指先が少し震えていた。コーヒーをこぼしてしまうと思ったのか、カップを持つのはやめて、「杏さん!」と言うと、蒔田は唐突にカバンの中に手を突っ込んだ。いつもスマートな蒔田にしてはめずらしい。
 胸がちょっとざわついた。

 「出張で出かけたんですが、ちょっとおもしろいものを見つけたので」

 と小さな箱をテーブルの上に置いた。
 
    
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