第111話

文字数 500文字

 しまった、看板を片付けておけばよかった、と思ったがもう遅い。さっと体を離し、何事もなかったかのように装ってドアを振り返った。

 「な、なんだ、蒔田か」

 扉を開けた蒔田は、杏さんと僕が二人で店内にいるのを見ると、慌てて足早に近寄ってきた。そしてテーブルの上の空っぽになったカップと、リボンのかかった包みを見ると、蒔田はのけぞるように天井を仰いだ。
 それから腹筋運動を百回繰り返した後のように苦しげに体を起こすと、僕のわき腹にパンチを入れた。

 「いてっ」

 蒔田は僕の叫び声は無視して、杏さんを見た。

 「杏さん。惣一郎は……」言いかけて止まる。それから柔らかく微笑んで「いい奴ですよ」と言った。

 不覚にも泣きそうになった。
 
 「情けない奴だな。泣くなよ、男の涙なんか美しくも面白くもないんだからな」

 浮かびかかった涙を見逃さず、冷たく言い放つ。ぶれずに男には厳しい奴。でも今ばかりは抜け駆けした免罪符をもらったみたいだった。僕が笑っていると、蒔田が肩に腕を回してきた。無理やり引っ張られ、杏さんから少し離れたところに引きずられた。

 「杏さんのこと、簡単に諦めると思うか? バカめ。勝負はこれからだ」

    
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