第63話

文字数 558文字

 二人の茶碗が空になった所を見計らって、僕は赤色のチェックの水筒を持ち上げた。杏さんが持って来てくれたマグカップに、丁寧にゆっくり注ぐ。コーヒーの香りが湯気と一緒に揺らめきながらたちのぼった。
 杏さんは目をつむって、すーっと鼻から息をすいこんだ。
 
 「ああ、いい香りですねぇ」

 うっとりする杏さんを見て、ひとつ、分かったことがある。

 「杏さん。杏さんはコーヒーの香りが好きなんですね」

 小さな(つぶや)きは、杏さんには届かなかった。だけどそれでよかった。香りを味わう杏さんの邪魔をしたくなかったから。

 杏さんはエスペランサにいるときと同じように、マグカップを両手で挟んで持つと、コーヒーをそっと一口すすった。

 気付くかな? 気が付かないかな? 気が付かなかったら、言おうかな? 僕は杏さんの横顔をじっと見た。

 「あれ……っ? なんだか……いつもと……。」

 杏さんは首をひねった。
 気が付いた! 体温が二度上がった。

 「あ、気が付きました?」

 得意のポーカーフェイスで、何でもないことのように言う。なぜならあれこれ調べて、なんども試飲したなんて言うのはかっこ悪いじゃないか。

 「ほんのり、甘いですね……」

 杏さんにコーヒーを美味しく飲んで欲しくて、苦くない珈琲豆を探しました。淹れ方も色々試したんですよ、と心の中で語りかける。
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