第12話

文字数 578文字

 僕が手のひらを返すと、チャリンと音がした。杏さんが僕の手の上にお金を落としたのだ。触らないように、気を遣ったのだろう。いつもなら、杏さんはお金を備え付けの銀の皿の上に丁寧に置く。
 端数までぴったりだった。いつも頼むのはブレンドコーヒーなので、金額を覚えていたのだろう。

 「ぴったりお金を持っていて、よかったです」

 杏さんは言った。そしてさっと立ち上がると、手には蛇入りの巾着袋、背中にリュックを背負って行ってしまった。

 遠ざかる杏さんの背中は、無理に伸ばしている訳でもないのに、スッと一本筋が通っているように見えた。
 僕は一、二歩彼女の方に踏み出してしまって立ち止まる。遠ざかる背中に向かって叫んだ。

 「あの! ありがとうございました! また木曜日にお待ちしています。 きっと、来てくださいね!」

 杏さんはくるりとつま先で回って振り返った。嬉しそうに笑うと、大きく手を振った。思わず手を振りかえしてしまってから、カフェのクールなマスターにはあるまじき行為だったな、という思いが頭をよぎったが、そんなことどうでもいいことのような気がした。杏さんの笑顔の前には、自分のこだわりと思っていたものは、ちっぽけなことだ。

 この次に杏さんが来たら、カプチーノを煎れよう。そしてもしも彼女が嫌じゃなかったら、フォームミルクに絵を描こう。もう一度、あの笑顔が見たいから。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み