第73話

文字数 553文字

 「いいのよ。私だけ杏さんの名前を知っているなんて、不公平でしょ。それに私のこと、知っていてくれて嬉しいの。マスターには機会があったら杏さんに紹介してって頼んであったのよ。だから気にすることはないの」

 僕には覚えのない依頼を口にすると、渚さんはダメ押しにはっきりとした笑顔を作った。そしてカウンター席の下に置いてある籐籠の中から、A4サイズの書類が入る茶色のカバンを取り上げた。

 渚さんが視線を投げて来たので、僕は軽く頷いた。カウンターを出ると、渚さんのドリンクを杏さんのテーブルに運んだ。先に椅子に腰かけていた渚さんの前にドリンクを置き、体を起こすときに「お名前の件、すみませんでした」と小さな声で言った。

 「全然。さっきの、本心だから」渚さんは唇を動かさないで、早口で囁き返してくれた。そしてポンポン、と軽く僕の腕をさりげなく叩いた。

 「マスター、杏さんにデザインカプチーノね。あっ、アプリコットコーヒーの方がいいですか?」

 「いえいえ、自分で頼みますから!」

 杏さんは手と頭をぶんぶん振るって断る。ところが激しく頭を振りすぎてクラクラしてしまったらしい。ふいに杏さんは頭を振るのをやめた。しかしどことなく瞳が揺れている。
 渚さんは目を細めて杏さんの様子を見ていたが、こらえきれずに笑い出した。

    
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