1994年7月17日 [ 3 ]

文字数 3,158文字

 波切神社へと上がってきた階段とは別の階段から下りると、そこは、さっきまでぼんやりと眺めていた漁港の小さな湾の反対側で、小山のように思ったそれが神社だった。辺りをぐるっと回ってきたようで、それは不思議な感じもして、裏側から世界を見ているようでもあり、私がさっきまで立っていた気配すらまだここに残っている気がした。少しは鳴いていた蟬の声も、また聴こえず、あれ程、暴れていた波も、ここには無い。そして漁師は、まだ網を縫っている。どうしてだろうか、このまま先へ進んではいけない気がした。
「ピアノ、もう一度、戻っていい?」
 何も言わずに頷いたピアノは踵を返すと、神社の階段を一段飛ばしで上がっていった。

 階段を上がるというのは疲れる作業で、上がっている時は下りる時のことを考えているのに、下りる時なんて上がってきた苦労のことなんてさっぱり忘れて次のことや他のことなんかを考えている。でも、永遠に一定の行動だけが強いられた状態で行き着くのは、どういった所なのだろうか。そんな途方もない問いに行き着いたところで、私の上る階段は簡単に尽き、そして、最初に上がった階段を下り、再び海へと戻った。今の私もそうだけれど、何となく全てのことは海へ行き着くのが答えの一つとして間違っていないように思えた。歩けば、いずれ海へと辿り着く。引き返し歩き続けても、いずれ海へと舞い戻る。そこには灯台が、淋しく岬に建って待っている。

 灯台の下部に海の方へ向いた特徴的なバルコニーがあり、そのバルコニーを支える白い幾本かの柱は等間隔に並び、規則正しい影を地面に落としていた。庇のようにせり出したそのバルコニーの真下に据えられていたベンチに座った私とピアノは、ここからは見えない波の音を黙って聴いていた。解放したままの髪は時折風にあおられ、かきあげようとしても潮できしみ指が引っかかる。この上手くいかない感じが、今の状況を表している。正午へと迫る夏の太陽はバルコニーの下で影とせめぎ合い、辛うじて残された日陰から見える空は、実感の湧かない嘘みたいな青色一色で貼り付いていた。
 前には進めず何となく戻ってはみたものの、明確なアイディアなんてものは何も無かった。これまでも、あまり無かったのかもしれない。今はピアノが横に居て、眼の前に海があった。でも、五線譜を失った。私のちっぽけな許容量だと、何かを得るなら何かを手放さなければならないのだろうか。それでは私が死ぬ時に、最後まで残っているものは何だろうか…… これ程、考え事に、波の音が合うなんて知りもしなかった。もしかしたら、考え事をしないのにも最適なのかもしれない。そんなことを、私の肩に寄り掛かって眠ってしまったピアノに思った。

「ふあっ、何時?」
 日曜日ということもあってか、灯台にも観光客が徐々に増え始め、岬へ辿り着き、海を眺めて沸き上がる歓声は頭の中の考えがまとまるどころか、むしろ岩肌にぶつかり散らかるようだった。ピアノの寝ていた数十分程度では何かが見つかることもなく。ただ波の音だけを繰り返し聴いているだけだった。目覚めたピアノも少し疲れているのかもしれないので、私達は一度帰ることにした。


「ちょっと寝るわー。涼しい時間になったら買い物行こう。おやすみー」
 独りになった私は洗濯機を動かすと、ポーチで煙草を吸いながらぼんやりとしていた。まだ、私のパンダがいつ戻るのかは分からない。ここを出る時、私は名残惜しさと、もやもやしたものを抱えて旅立つのだろうか。
 随分と長く深く考えているようで、また波の音と同じ、ただ芝生を見つめているだけのような無為な時間を過ごしていた私を呼び戻したのは、洗濯機の終了ブザーだった。洗濯物と暑さのせいにして私は考えるのを止めた。
 気怠い気温と停滞する湿度の中、洗濯物を干し終えた私はじわじわと湧いてきた眠気に負けた。考え事をしなくなると眠くなるのかもしれない、ピアノのように。

 買い物に行く車、私は陽の暮れかけた道を走る。やはり蝉の鳴き声は無くて、とても静かな夏の夕焼けだった。やがて道は緩やかに上り始め、辺りには霧が立ち込める。センターラインも分からない中、いつしか右側通行になって、ヘッドライトの乱反射…… 急に眼の前に現れたのは、紛れもなく私だった。
 その瞬間、私は目覚めた。辺りは暗くて、完全に陽が落ちていたのだろう。起き上がろうとしたけれどふらふらで、寝転がったままぼんやりとしていた。そろそろピアノも起こさないと、なんて思いながらも動く気がしなかった。陽に当たり過ぎて、私も疲れていたのかもしれない。もう少しだけ、このまま横になっていようと決めた途端、何かの気配がした。きっとピアノが先に起きて待っているのだろう、それなら私も起きなければと上半身をゆっくりと起こすと、足下には私を見下ろす黒い馬が…… そして、完全に眼が覚めたのは、まだ陽が射す時間のポーチの椅子の上だった。

 一時間も経っていない睡眠から目覚めた私は洗濯機の横に腰を下ろし、揺れる水の音を聴いていた。頭と身体はすっきりしたが、どうも見た夢の余韻を引きずっているようで、心と身体は一致しない。結局、そのまま脱水も終わり、洗濯物を干しに外へ出た。
 風になびく洗濯物はいつまでも見ていられるし好きだけれど、風もなくぐったりしている姿は不様で、何となく今の私を見ているようだった。
 本でも読もうと本棚を眺めてみても、背表紙の文字はまったく頭に入ってこないし、布団の上で横になってみても、もう眠れそうにもなかった。珈琲を淹れて、ポーチの椅子に座り、煙草を吸いながら同じ光景を見る他にすることは思いつかない。情けないけれど、これが今の私の全てで、後は夢の中ぐらいにしか何とかしてくれそうなものはないように思えた。ピアノも居ない、これが本当の私なのかと。


「おっはよー、むっちゃ寝てたわ。買い物行こかー」
 ピアノを助手席に乗せ黒パンダを走らせていると、足りないものが全てぴったりと埋め尽くされるようだった。ピアノって何なのだろうか…… 良い人、少し強引だけど、気が合う人、性格が真逆だから、変な人、意外に似ているのかも、やっぱり、まだ全然分からない。
 買い物を終えて家へと戻る道、ピアノは家への最後の小路へ入らずに真っ直ぐ行けと言った。
「ちょうどイイし、いいもん見せてあげる」
 木々の他に何もない暗い道を、沈む夕陽を追い掛けるように真っ直ぐ進んだ先に、拓けた駐車場があり、そこは英虞湾を臨む展望台だった。エンジンを切り、黒パンダから降りた私は、その広大な茜色の光景に眼を奪われた。音もなく黄金色に染まる穏やかな海、逆光に黒く沈む点在した島々、海の彼方にそびえる山々の滲む稜線、移りゆく色彩の中に横たわる長い雲、見上げた濃紺の夜空に輝き始めた星々の圧倒的な時間と自然の調和…… 完全に私は打ちのめされた。
「どう? 今日は夕焼けもイイ感じやし、キレイやろ?」
「こんなの…… かないっこないよ……」
 今日一日必死で考え探っても何も分からなくて、こんな、いとも簡単に私の一日を最後に奪ってゆくのは悔しかったけれど、この巨大な力を前にすると仕方のないことだった。静かという言葉では到底表しきれない、昔、何かの本で読んで知った寂静という言葉そのもの、一切の音は止んでいた。
 陽は黙って落ちてゆく。見えるもの全てもまた、時に吸い込まれるように夜へと消えてゆく。私も、その中の一つ…… それでも、これまでの私もここに居て、これまでの半分ぐらいの私は連れていかれ、何か違うものに取って代わった。今日考えていたことと同じ、今すぐ何かが分かるようになんて、この世は出来ていない。一つだけ分かることは、結局、海へ戻るということ。
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