1994年7月20日 [ 1 ]

文字数 2,542文字

 蝉の大合唱で朝は始まった。早くからオサムさんは出掛けたようで、ピアノと私も朝から各々の作業に取り掛かっていた。ピアノはポーチで詩作に耽り、私はグランドピアノの足下で調律道具を広げ、アップライトとどちらから調律を始めるか見比べる。よくよく考えてみると、楽器屋を除けばアップライトとグランドが同じ空間にあるのも珍しく、ましてや、その両方を調律するなんてことはこれまでに無かったので少し悩んでいた。順番なんて本当はどちらが先でもよいのかもしれないけれど、考えている内にグランドは黒い馬のように思えて、またアップライトは茶色のその姿がポニーのようで可愛らしく思えてくる。音や技術に関することならまだしも、ルックスのことを考えている自分がおかしくて、私は思わずニヤニヤしていた。きっと調律することが楽しみで、さらに自信を持って役に立てることが嬉しかったのだろう。とりあえず、ポニーは後でたっぷり可愛がるとして、宿命の相手の黒い馬の方から作業に取り掛かることにした。


 書き掛けの詩の断片、もしくは紙の余白、ときどき風景をぼんやり眺めてると、ミチヨの奏でるトッカータが聴こえてきて、それまで完全に止まっていたペンを握る手がノートの端に言葉をいくつか置いた。オートマチックに生まれる言葉には、普段、思い付かへんような響きとか意味が生まれて、ワタシの知らへん場所へと導いてくれる。何かミチヨの調律に似てるんかもしれん。音と言葉が出会って詩は続く。言葉の先に音が聴こえ、その音がまた言葉を紡ぐ。不必要な言葉はここになくて、ミチヨが書いた詩、そうも思わされるひとかたまりの文字が並んだ。タバコに火を点けて、読み返している内に音は止み、調律は次の作業へと移る。


 グランドピアノの音の整音や調整はされているようで、私は安心して調律の作業へと移る。チューニングハンマーを手にしたところで、ふとエッサウィラで感じたあの感覚が蘇り、頭の奥深くにある意識の中に夜の海の光景が迫ってきた。見上げた輝く星々の下に張られた横たわる太くて長い、いくつものピアノ弦の先は海の彼方からやって来て、どこまで続いているのか分からない。「49A」の鍵盤を叩くと夜空の絃はその身を震わせる。生れた音はどこへ向かうのか。闇夜に浮かぶ月だけが、ただぼんやりと辺りを照らしている。


 あの日、エッサウィラの楽屋に入ってすぐ、聴く気もないウォークマンのイヤホンを外すと、扉越しに聴こえてくるミチヨが調律する音を確かめてた。初めは興味本位、同い年ぐらいの女の子の調律やからどんなんやろって感じぐらいやったけど、なんやろ、音のブレが段々小刻みになって、一つに交わり、スッと本来あるべき音が姿を現し、そこからさらに研磨するように音を磨きながら捉えるべき点で止めたことに、その瞬間、ワタシは完全に身構えてた。一度やったら、まぐれもある。そうも思いながら、呼吸をするのも憚られるぐらい音も立てず固唾を呑んで次の音が来るのを待った…… 同じやった…… まだ、ワタシは緊張を緩めることはせんと眼を閉じて耳に神経を集中してた。次の音も、その次の音も、ずっと同じようにワタシが知ってる瞬間へミチヨは音を止め続けた。


 エッサウィラでの感覚は、まだ手にも耳にも、そして私の頭のイメージの中にもしっかりとあった。むしろ二回目だからか、尚更色濃く音を捕らえることが出来る気がする。まず、これまでのように音をチューニングハンマーで引きつけ、以前ならそこで終えていたポイントから私はさらに音へ飛び込むように微かな力をハンマーへ伝える。その音の響きは、消え去る瞬間まで明らかな余韻と後ろ姿を晒す。私は、その軌跡を追っていた。海へ吸い寄せられるように消えてゆく音…… 繰り返し音は夜の海へと消えてゆく……


 硬直する身体や意識は、息苦しさで吐き出した呼吸と一緒に崩れ落ちた。扉の向こうで、まだ調律の音は繰り返し続く。その間ずっと、ワタシは眼を閉じながら、音の持つイメージと、そこから生まれるべきその日の演奏について探っていた。正直なところ、弾かんでイイやんって思った。この調律をお客さんに聴かせた方がスリリングやったから…… まあ、それも無理な話しで…… 無い知恵を振り絞って、何かイイ曲がないか考えたけど、結局、ミチヨの調律が終わって音が止んだ時、その場に合う演奏を一から作る以外にないってことが分かっただけやった。


 これまでに、これ程の満足を得られる仕上がりがあっただろうか。部屋にあった時計を見ると、大していつもの作業と変わらない時間が経過していたが、何となく私の身体がスッキリとしていることが不思議だった。いつもの調律終わりであれば、ぐったりとした身体で頭もくたくたといった感じだったのが、気持ちの良い目覚めのような充実感が全身にみなぎっていた。
 休憩がてら、冷めた珈琲をマグカップへと注ぎポーチに行くと、ピアノも休憩中だったのか、ちょうど煙草に火を点けるところだった。
「グランド終わったから、休憩したらアップライトも今日中に終わらせるね」
「そんな急がんでも、ゆっくりやってくれたらイイで」
「何か、調子がイイんだよね。だから、この感触がある間にやっておきたい、っていう感じなんだ。ところで、そっちはどうなの?」
「ん? ぼちぼち、ってとこ」
 テーブルの上には、伏せられたノートが一冊と、国語辞典や類語辞典、さらに英和、和英の辞典まであった。詩には少し英単語が入っているのだろうかと想像しながら、私はベンチに腰を下ろし、珈琲を一口飲んでから煙草に火を点けた。
「蟬、急に鳴き出したね……」
「ほんまに…… そういえば、波切の駐車場のおばちゃん、今日って言ってたな…… ミチヨは気にならんの? こんなうっさい中で調律してて」
「ここまでうるさいのは経験なかったけど、案外気にならなかったな」
「そうなんや…… ところで、お昼食べる?」
「いいや、そんなにお腹空いていないし」
「私も」
 正午前、ポーチのせり出した屋根が勢いを増す陽光を遮っても、ついに始まった本格的な夏の喧騒はどうしようもなかった。ただ、実際に訪れた五線譜の現れない夏は、激しい暑さが不安さえも溶かしてしまったのかもしれない。
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