1994年7月21日 [ 1 ]

文字数 2,455文字

 朝一番の電話。この日の朝は家に居たオサムさんが電話に出て、親し気な会話の後に受話器を置いた。
「ミチヨさんのパンダ、今日仕上げるから、明日持ってくるって」
 オサムさんにお礼を言いつつも、帰る術が整ってしまうことによって、途切れていた東京の生活が急に現実味を帯び始める。
「今日って、お稽古の日やんな?」
 朝食の食卓を三人で囲みながら、今日の予定についてオサムさんがピアノに尋ねると、ピアノは難しい顔をしながら口を開いた。
「そうなんやけど、今日は自転車で行ってくるから、ミチヨもオサムも家で作業しといて」
「自転車で行く、ってお前、あっこまでかなり遠いぞ」
「そんなんいいから、今日は各自作業に集中! ミチヨは調律あるし、あんたも曲の構成考えなあかんやろ」
 この家自体が英虞湾の中の入り組んだ岬の先にあり、お稽古のお家がある鵜方駅の方へ行くには、確かに車で走っても相当な距離だった。ただ、ピアノが送ってもらうことぐらいで遠慮するとは思えないし、そこまで言うには何か理由があるのだろうと私は黙っていた…… それだけではない。ここでの生活が終わってゆくことへの淋しさが、私を閉口させていたのも事実だった。

 朝食を済ますと、ピアノは今日もポーチに陣取り、蝉の鳴き声と暑さの中で詩を考えているようだった。食器を洗い終えた私は二階へと上がり、先にエレクトリックピアノを分解してくれていたオサムさんから特殊な調律の方法を教えてもらう。各鍵盤の整音作業は知識も無ければ道具も素材もなかったのでそのままに、調律だけをすることにした。
 通常のピアノと異なり、構造上、内部に弦は無く、まず始めに作業を開始した方は、並んだ金属の板に付随する棒へと巻かれた針金を前後に移動させるという何とも不思議な調律方法で、チューニングハンマーを握り締め、力を込めて動かすようなことはなかった。狭いパーツの隙間へと入れた竹ひごの先でちょんちょんと針金を突くだけ。地味だけど、繊細な作業なのはいつもと変わらない。ただ、動物的な感覚、つまり馬やポニーのようなイメージは湧かず、何となく以前の調律と同じで単純作業というか、そういえば、こんな感じだったな、と思い返しながら私は音を聴いていた。
 さらに、もう一台のエレクトリックピアノは、これまたさっきの一台と違い、ねじ止めされた金属片の位置を微妙に動かして調律する構造だった。私の知らないピアノ達は、それなりに重いとはいえ、持ち運びを想定してコンパクトに設計された苦労のたまものだろう。その独創的な構造や発想が、類を見ない個性、ヴィンテージの響きとして愛されながら今も輝いているのだった。鍵盤楽器という共通項を持ちながら、どれも違うのは、人間らしさを感じ、また、これまで向き合ってきた全てのピアノも一つ一つに異なる顔があったことを、今さらながら気付かされる。
「この子達って、随分と古そうだね」
「そやな、二、三十年ぐらい経ってるな。この家にある鍵盤はだいたいピアノの家にあったもんやねん」
 そういえば、当たり前のようにこの家にピアノは住んでいるけれど、どこかに実家みたいなものがあってもおかしくはなかった。話の先を聞いてみたい興味はあっても、直接本人から聞かされるわけでもないので、これ以上、話を広げるのは止めておいた。

 二台のエレクトリックピアノの調律も終わり、一休みしようとオサムさんとポーチへ行ってみたが、すでにピアノの姿はなかった。オサムさんがポーチの奥の家の裏手へ自転車を確かめに行くと、首を横に振りながら戻ってくる。仕方なく珈琲を淹れようと家の中に戻った私達は、キッチンのテーブルの上に置かれた「ミチヨへ」と書かれたメモと、私が歌う予定の二種類の譜面を見つけた。そこには歌詞が記されていて……
「ちょっと! 英語の歌詞なんて聞いてないよ!」
「えっ? ほんまや、英語の歌やん」


 ああ、蝉の声がうっとおしい、風も無くて暑苦しい、道にほとんど日陰も無いから大きい麦わら帽子かぶってきたけど焼けそうやし、チェーンは錆びてヘンテコな音を立てまくるし、いくら漕いでも逃げ水には追いつけへんし…… 車が猛スピードで後ろから近付いてきたから道の脇で止まったら、ワタシを追い抜いて、あっという間に小さなる。真夏の正午のかんかん照りの何もない道の上、自転車乗ってるヤツなんてワタシぐらい。いっそのこと、この暑苦しい空が落ちてきて、全部チャラになって、全然違うこと考えられたらええのに…… って、なんや、この発想。よっこらしょ、ってペダルに体重を乗せたら簡単にタイヤは転がるのに、頭の中は停滞したまま。
 曲が出来て、録音して、パンダも明日戻って…… 夏は始まったばっかりやのに、もう、終わるんかな…… ほんで、オサムと二人の生活がまた始まって……
 登り坂を前に自転車を降りて押して歩いてたら、遠くの空に湧き上がる入道雲の呑気な感じに呆れて、微笑ましくなる。蝉の鳴き声もこの暑さも、余計な事考えんようにしてくれてて、もしかしたら夏って、優しいんかもな。


‐driftwood

I stand still alone
on the boardwalk
you drift on the waves
without me

nothing matters to me
you didn't hope to be with me


I found a driftwood
on the water's edge
I was listening carefully
to the sound of sand

nothing matters to me
you didn't hope to be with me anymore


独りで佇む
ボードウォークの上
波間に漂うあなた
私なしで

どうでもいいこと
あなたは私といることを望んでいなかった


流木を見つけた
水辺
注意深く耳を澄ましていた
砂の音

どうでもいいこと
あなたはもう私といることを望んでいなかった
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み