1994年7月23日 [ 1 ]

文字数 3,704文字

 当たり前のように、ポーチで歯磨きをする朝がやって来る。支度されたテーブルの上の朝ご飯を三人で食べ、私は食器を洗い終えると、家中のあらゆる洗濯物を洗濯機に入れスイッチを押す。余っていた珈琲をマグカップへ注ぎ、蝉がミンミンと鳴くポーチへ行くと椅子に腰を下ろし、もう何度目かも分からない譜面に記された歌詞を読み始める。

 文字に漂う流木は、とっくに話し相手もいなくなったのに独り呟いている。誰かに聞いて欲しかったことも、すでに届かない。ここがどこかも分からず、私はあなたで、あなたは私かもしれなかった。混じり合う思考の中、断たれた望みはどちらのものだったのか。それも、もはや意味を成すことはなくなった。ただ漂うことだけが、私達を繋いでいることとも知らずに。見つからなかった流木は無くなった訳でもなく、姿を変えた。異なるものへ元の形の想いを重ねた私達は、どこまで流れてゆくのだろう……
 暑さにやられたのか、私は妙なことを考えていた。ピアノの書いた詩を十分すぎる程に取り込み、血となった言葉が身体中を駆け巡り、私は新たなところへ行こうとしているのだろうか。考えを少し引き戻して、私は流木を眺めるイメージに身を任せた。すると、洗濯機の終了ブザーが鳴り、一気に私を詩の世界から引き戻す。

 洗濯かごを担いで裏庭へ向かうと、じりじりとした陽光が自然界の活動を抑え込む強さで照り付け、風さえ吹かない中で私は洗濯物を干してゆく。慣れた手付きで手を動かしながら、頭では漂う流木のことを考えていた。私は流木のことが詩で書かれる前から気になっていたが、そもそも、なぜピアノは流木の詩を書いたのか。よくよく考えてみれば、以前も今日と似たような洗い物や洗濯をしながら自分を流木に例え考えていたり…… 歌うことを、お願いをされた日だ。これまでの人生で流木なんて一切係わりもなく、でも、ここへ来てやたらと流木に魅了され、挙句には流木を自分みたいだと……
 皮膚から滲み出る汗は、暑さという驚異への僅かばかりの抵抗をしている。全てを干し終えると、頭がぼおっとして私の鼓動は速くなっていた。
「ミチヨ―、そんな暑い中で突っ立ってて大丈夫かー?」
 二階の録音部屋の窓枠に腰を掛けたピアノが私を見下ろし声を掛ける。早く日陰にでも入ればよいのに、やはり流木は陽に晒されるものなのだろうか。
「大丈夫! ちょっと考え事してて、現実と真正面からぶつかってるだけだからー」
 全く、どんな返事なんだろう。ピアノは笑っていたけれど、私の頭は完全にのぼせていたのかもしれない。


 午後は、ピアノのお稽古だった。オサムさんを家に残し、私とピアノはパンダで出掛ける。オサムさんの家と世界を繋ぐ木立の道、蒸し暑い微風に揺れる葉と葉の隙間から射す木漏れ日を見た私はパンダを停めた。
「どうしたん? また故障?」
「ううん、違うの、少しだけ、こうしてていいかな」
 詩のことばかりを考えていた私は、眼に映る全てを解釈しようとして、少し感傷的になっていたのかもしれない。それだけじゃない、ずっとこの先、永遠へと立ち返る過去を私は無理やりにでもあの移り煌めく木漏れ日の輝きのようなものに託さそうとしていたのかもしれない。おそらく、私は焦っていた。思い通りに全てを創ろうとして……
「こういう時間も大切やな」
 どういった意味でピアノがその言葉を発したのかは分からない。同じ場所で、同じ光景を見ていても、異なる経緯を経由して訪れた時間の交差点で互いに偶然立ち止まり、私達はそれぞれ、どのような感情の中へと入り込んでゆくのか。いや、感情すら無い、別の何かへの、ここは新たな入口なのだろうか……
「――よし、お待たせ。遅れるといけないから行こう」
 パンダに乗った私達は、また進み始めた。だけど、辿る道は同じ道だとは限らないのかもしれない。


 ピアノを例の黒い馬が見えると言った生徒さんのお宅で下ろし、私はまた近くの海へと独りやって来た。ここを訪れるのは、これで三度目だった。
 パンダから降り、海を眺める。外洋の力強い波と風は今日も衰えることなく、こちらへと迫り来る。波の砕ける重い音が私の全身へとぶつかり、些細なことは潮と一緒に散ってゆく。こうして海を前にすると、この世界の大きな循環がよく分かる。本当は普段と何も変わらないはずなのに、忘れていた過酷さを浴びることになる。ある種の緊張の中で、私は恐怖と同時に、それに抗う方法や希望のことを考えていた。
 流木を海へと流したのは私…… そして、波間に浮かんでそれを見上げているのも、私なのだろう。私は、どちらの私を選ぶのか…… どういった人生を生きるのか。どちらを選ぶにしろ、私達は大海原を漂う。どちらから見るかの違いでしかなく、ただ漂う。
 やがて岸へと辿り着いた私は、私へと再び出会う。私達が離れた時の感情は、粉々になり研磨され、形は変わってゆくのだろう。本当のところ、微かな記憶がそこには残っているのかもしれない。それでも私は、陽光に照らされた浜辺で、私の手に抱かれながら、やがて私を理解することだろう。

 容赦のない陽射しが射す砂浜で、私は片手で抱えきれない程の流木を集め歩いた。それは、生への贖罪じみた行動かもしれない。干上がった感情は形骸化した流木に等しく、私はそれらを拾い集めることを止められなかった。
 両手で零れないように抱え運んだ流木を私はパンダのトランクへと積み込み、その姿をしばらく眺めていた。いつか理解する日に辿り着ければ幸せだろう。それまでずっと私は漂いながら、考えるのだから。


 お稽古からの帰り道、私は今から録音出来ないかとピアノに相談した。返答は、もちろん大丈夫とのことだったので、さらに私は録音方法の提案をした。そして、家に着くなり、オサムさんを交え、ポーチで会議が開かれる。
「――つまり、ピアノの演奏と同時に録りたい、ってことか。なるほどな」
 私の提案にオサムさんは黙ったまま思案し、ピアノと私はどちらから先に録るのかを話した。
「まずは、driftwoodを録りたいんだ。black mareの方は、ちょっと待って欲しい」
「分かった。ある程度、ピアノのイメージは出来てるし、後はぶっつけ本番で差し引きしてみる」
「――そうやな、それやったら、ドラムも同時に録らして欲しいな。他の付け足す楽器は後でどうにでもなるから」
 録音方法が決まった。ドラムとピアノ、そして私の歌を一度に録る。

 グランドピアノは、この前のように二階から階下へマイクの配線を垂らし録音する。ドラムは、そのまま二階の録音部屋でオサムさんが叩く。歌をどこで録るのかオサムさんの準備作業を見守っていると、私の寝ている本の部屋にマイクスタンドが立ち、隣部屋のグランドピアノのように二階の窓から配線が繋がれ、あっという間に、それぞれ別々の簡易録音ブースが出来上がっていった。
「マイクの本数ギリギリやったな。お互いの音は各部屋の窓を開けとけば聴こえるし、それもマイクにうっすら入る程度で問題無いやろ」
 気温も上がりきった暑い午後の録音。扇風機も消した冷房もない屋根裏で、オサムさんは何テイクも私達の納得がいくまでドラムを叩き続けてくれた。グランドピアノに向き合いながら、ピアノも曲へのあらゆるアプローチを駆使しながら弾き続けた。そして、音が立ち上げた時間の儚い世界を、私は拾い上げた流木一つ一つに言葉を添えながら漂う。場面に相応しい感情の中で、歌にならない呟きを残しながら……

「ちょっとー、集中力のげんかーい!」
「休憩やな! さすがに暑い!」
 自然とポーチへ集まった私達は、冷えたガラス瓶の水を飲みながら、どのテイクが良かったか話し合った。
「たぶん、ご多分にもれず、全体的には一番最初のがイイんやけど、ちょっと納得いかへんワタシの音が一か所あるはずやねん」
「それやったらドラムは最初やりすぎた感じがあるから、後半の方がまとまってきてるけどな」
「私は…… 自分では分からないかも…… どれがイイか……」
 火照った身体に注がれた冷たい水が体温を少し下げた頃には、私達は黙ったまま、きっとそれぞれのことを再考していた。そんな中でも、しつこく鳴りやまない蝉の声だけが響いている。録音をよく聴けば、蝉の声も入っているのだろうか…… 私はこの夏のことを考えていた。

 休憩後、また録音に取り掛かる。これといって準備もない私はマイクの前に立ち、ぼんやりとしたまま、さっきから考えていたこの夏のことが頭から離れなかった。この数日、色々なことがあり過ぎて、将来、思い返した時、私はこれをどう捉えるのか。過ぎ去っていった一日一日に何か意味を持たせたりするのかもしれない。そして、変化や失ったものを思い出して、懐かしむ…… 失った半分の私を…… そういうことかもしれない…… この時すでにオサムさんのカウントは始まっていた。イントロを弾き始めるピアノ。私は、もう身構えることもなく、歌詞の始まる小節の頭をほんの少しだけやり過ごしてから、言葉を呟いた。過ぎ去りゆく時間と私への想いを語る…… 詩に託して…
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