2004年7月26日 [ 1 ]

文字数 2,885文字

 冷え切ったベッドに入ると私はすぐ眠りに落ちた。うやむやと疲労からの解放は睡眠にしか頼ることが出来ず、目覚めるとまた私の周囲を取り囲む。睡眠をより肯定するなら、眠れただけまだマシということ。
 始めは、おつかいのようだったこの旅路も、いつしか自分の問題を目の当たりにし、ここぞとばかりに生きている実感を突き付けられる。普段の心配事が無い一日がどれだけよいかと思えるのも、このアップダウンのせいだとも言える訳で、私が死ぬ日までずっと、これの繰り返しなのだろうか。それとも、これで最後だと思えるのだろうか。それは、きっとないだろう。今まで寝ていた皴になったシーツを見てぐちゃぐちゃな自分の頭の中のようにも見えるし、昨日までの私を、そこへ置いてきたようにも思える。でも、私は知っていて、上手くいっていれば、こんなことを考えないし、何よりも物質的なものに心情を託している時点で、結局は、まだどこへも抜け出せてもいなければ、何も解決していないということだった。それは、最低な一日の始まり。

 耳を澄ましても隣室からの音は無く、アツカネがそこに居るかも私には分からず、昨日のことを考えると、今はまだ私から声を掛け、そこで言うべき言葉を持ち合わせていない。言葉を探すべきなのか、それとも行動で示すべきなのか。時間が解決することに頼りたくとも、帰国日は決まっていて、タイムリミットへと無情に時間は進む。この瞬間もだ。
 こんな時、自宅であれば掃除や洗濯等をして一時的にでも問題と距離を置くことも出来るが……


「ねえ、フレッド、何か手伝えることはない? 掃除とか何か」
「ホウ、ミチヨ、君は何を言っているか分かっているのか? ここはホテルで、君はお客さんだ。ホウ、先日のロビー大掃除はアツカネの為であって、まあ、ちょっとしたイベントみたいなものだから別だ。ホウ、そんなことよりも、ミチヨは我がサンフランシスコを訪れてから、ゆっくりと観光をしていないだろ? ホウホウ、こんなバカな話なんてあるか! サンフランシスコへ着て観光していないんだぞ? それに――」
 サンフランシスコ観光をしていないことがどれだけ悪いことなのかを語られている間、私はこんなことでも人に対して心配を掛けさせていることに情けなくなった。もちろん、観光なんて気分でもなければ、自分の興味の為や目的を持ってここへ着た訳でもなかったので、どこへ行ったらよいのかも知らない。
「――じゃあさぁ、フレッドのお薦めはどこ?」
「ホウ、このサンフランシスコの観光大使こと俺のオススメときたか! これは簡単そうでいて難しく、だからこそ、センスが問われる。そうなると――」
 腕を組んで考えながらぶつぶつと独り言を呪文のように唱えているフレッドをロビーに残し自室へと引き上げると、外出する支度を済まし、渋々と部屋を出て行こうとして全く化粧をしていないことに気付く。日頃から薄化粧ではあるものの、おそらく、こういうことに今気付いた以上、簡単な化粧ぐらいはしておくべきかもしれないと、大いに悩ましい思考で鏡の前へと座り、自分のこのパッとしない情けない顔を見て結局は益々落ち込む羽目になる。とくに行きたくもない観光、したくもない化粧、考えても答えが出ない悩み……

「ホウ、ようやく観光へ行く気になったか! よろしい!」
 ロビーでまたフレッドに出くわしたので、借りている地図を広げ、どこへ行けば良いかを尋ねると、フレッドの指はある一点を指し示す。そこには、ヘイト・アシュベリーと記されていた。


 観光ガイドブックに掲載されていそうな程の陽気なサンフラシスコの青空の下、私は自分の為に過ごす時間を歩いていることに実感を持てなかった。むしろ頭の中は、どこへ向かっていようが何をしていようが昨日のことが蘇り、どうしても行き着く先は悩みであり、全く観光を楽しめる気分ではない。そして、足取りが重いのは悩みだけではなく、街の至る所にある坂と照り付ける陽光によって身体が疲弊してゆくのもその原因だった。歩いても歩いても辿り着けなさそうな道を進む最中、ふと鼻孔へと漂ってくる甘い蒸した香りがあった。辺りを見回しても、すぐ側に人はおらず、それがどこから漂うのかも分からないまま、何となく懐かしさを覚え立ち止まり、建物の影に入りながら記憶を辿る。女性向けの香水で似たものもありそうだが、おそらく違う。あれこれと考え込んでいる内に残念ながらその香りは消え去っていた。その後、歩みを再開し、悩みから離れ香りの追及に没頭していたことで、目的地までの残りの距離は苦痛ではなくなっていたが、単純な思考や悩みの本質といったことは到着寸前で一気に押し寄せて来て、時間を経てさらに発酵してしまった苦痛の味は苦々しかった。私の内側を見ることをせずに、外側からの突拍子もない影響にすがっているようでは、まだまだこの先、変わらない私のただ老いた姿が思い浮かんでしまう。道端に落ちているゴミとなったオレンジの皮の方がまだ張りもあり瑞々しく羨ましく思える…… と同時に、またもや外側へ飛躍していること、さらに比較までしてしまっていることに嫌悪感は増すばかり。フレッドには悪いけれど、私のサンフランシスコ観光は、どんどん悪い方向へ行っているとしか思えない。こんなことなら、クリサリスの自室に引きこもっていた方がどれだけ良かっただろうか。
 私の進む先にはカラフルな花柄やサイケデリックな模様のグラフィックアートが増え始め、道行く人々もにこやかに言葉を交わしている。この世界有数のすこぶるハッピーに満ちた街並へ情けない面を下げて踏み込むなんて馬鹿げていた。

 肩を寄せ合い仲睦まじく歩く若いカップル、古いハーレイ・ダビットソンにまたがる年齢不詳の刺青だらけのバイカー、髪から全身に至るまで同じ色のないご婦人、すれ違う人々には今を存分に生きている姿があった。もしかしたら、それぞれに小さな悩みぐらいはあるのかもしれない。でも、私には他人のそれが見えないし感じない。そして、そんな器用な生き方があることが理解できても、今の私には遠いどころか、そんな方法が私の内側のどこにあるのすら分からなかった。一体何を食べさせるのか分からない飲食店、奇妙でちぐはぐな衣装をめかし込んだショーウィンドウの中のマネキン、眼に迫り来るレインボーカラーと関節のおかしな骸骨の模型、色とりどりのデッド・ベアが同じ姿で横一列に並び、占星術店の入口に掛けられた暖簾の下手な星座イラスト、澄ました内装のスケートボードショップ、おどろおどろしいデザインのタトゥーショップと、どれもこれもが私の頭の中を描いているようで、永遠とこのハチャメチャな通りの景色を背景に私は彷徨っていた。身体にタトゥーを彫り、ありったけの変な服や小物で身を包み、占いでもしながら、見たこともない料理でも食べれば、まあ、大抵のことなんてどうでもよくなるかもしれないし、それが、この街のスタイルかもしれなかったが、今の臆病で内気な私には、どれか一つでも試してみる勇気も度胸もなかった。
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