2004年8月1日 [ 2 ] 

文字数 2,258文字

 洗濯を終え、することが無くなった私は自室でぼんやりとした時を過ごしていた。開け放った窓から時折聞こえてくる街の声を除くと、今いる場所がどこであろうとそれほど関係なく、今の私にとって一番重要なのは頭の中でぐるぐると回る悩みの種をどうするかということだった。乾燥機のようにいつか終わりを迎え、ふわふわとした温かい感情に包まれることは果たしてあるのだろうか。生き方について考えさせられるのはジョージさんが亡くなったからだけではなく、私のこれからの生き方がいまひとつよく分からないからだった。何かにすがろうにも旅行中の私の身の回りにはとくにこれといったものもなく…… いや、一つあった。あの本。

 ベッドで横になり、パラパラとページを捲りながら気になる絵に眼を止め、そこへ添えられた一文を読んでみるが、やけに難しい知らない単語や、短すぎてよく分からない文章の意味が私を益々混乱させてゆく。作者は何を想い、これを描いたのか。この本を理解するには最良のサンフランシスコという環境に居ながら、私はちゃんとここに居る気がしなかった。じゃあ、どこに居るのだろうか。どこにも居ないような、宙ぶらりんで曖昧な現実と空想の狭間に居るような、むしろ、居るのかさえ定かではない…… 「EXODUS」か…… これまでの私から私は抜け出してしまったのだろうか。

 たくさんの絵を追いながら、私はあの蛾のページへとやって来る。「母は炎を目指す」という言葉を黙読しながら、このことを考えるには、これもまたクリサリスは地球上で最良の場所かもしれないと思った。この巨大な蛹の中で私は何かを考え、いつか飛び立つことが出来るのだろうか。そもそも蛹というのは一体何なのだろう。そんなことも私はよく知らなかったし、仮死状態のような時期が命の最中に必ずあること自体よく考えてみると不思議でならなかった。成虫になる手前にわざわざ与えられた止まった時間…… いつまで絵を見ていても、言葉を読んでみても、私にはそれらが到底飛び立ちそうに感じることが出来なかった。本から顔を上げ、窓の外へと視線を移すと、いつもの空がそこには広がっている。以前と同じように眺める空さえも、もう本当は違うのだろうか。空が変わったのではなく、私の何かが変わったのだろうか。


 晴れている空を横切る小さな一匹の蛾。確信を持って蛾だと判断出来たのは、それが蛾だということをすでに私が知っていたから。真昼間の青い空に舞う蝶、それは違和感がないけれど、蛾はどこか夜の感じがして似合わない。そんなこともおかまいなしに蛾は飛んでいる。
 逃げる蛾、追う私。見失うと消えてなくなりそうで、つまずきそうな足下も気にせずに見上げていると、くるくると上昇しながら、やがて太陽光線の白い光の中へ消え去り、あまりの眩しさで眼を逸らした隙に、私は蛾を見失う。いくら辺りを見回しても、どこにも居ない。そうだ、初めから居なかったんだ。きっと気のせいだろうと納得した私は、不自然な身動きで景色を見下ろしていた。でも、すぐにまた納得し、私はどんどん高く舞い上がる。翅を必死に動かし、風に流されながらも、遠く離れてゆく木々や植物。どれだけ頑張ってみても、ある高さ以上には行けなかった。納得、そうだ、行ったらいけないんだったね。空は晴れていて、とっても綺麗で、でも、行ったらいけないんだったよ。行ったら駄目な気がしたから。


 瞼を開けるとそこには枕があって、重い頭と怠い身体で居眠りしていたことに気付いた。ものすごく長い時間寝ていたような気もしたが、本を手に取ってから一時間も経っていなかった。その本はというと、枕の側で蛾のページを広げたままになっている。変な夢の原因はこれかと私はぞんざいに本を閉じると起き上がり、人の身体の重さでは飛べないなと思った。

 その夢は見たこともない世界に居て、少なくともサンフランシスコではなかった。そして、誰も居なくて、知っているものは何もなく、飛んでいたけど…… 顔を洗おうと立った洗面台の鏡に映るのは蛾ではなくもちろん私で、それは見事に寝ぼけた顔だった。


 ロビーへ行くとまだフレッドは居て、ソファーでくつろぎながらジョージさんのノートを読み続けていた。
「ずっと読んでいたの?」
「ホウ、ミチヨ、もう何度読んだか分からないが、今はこれを読んでいないと気が済まないんだ。今じゃないと分からないことがある気がして止められない」
「そっか…… そうだよね。まだ、あれからそんなに日も経っていないし、ましてやフレッドは葬儀の段取りや部屋の片付けで忙しかったもんね」
「ホウ、ところで、寝起きのミチヨはどこへ行くんだ?」
「えっ、なんで、寝起きって知ってるのよ」
「ホウ、そりゃ、その顔を見れば、な……」
 そんなに酷かったとは…… 見た目なんてあまり気にしない私でも、これは少しショックだった。
「酷いよね、もう笑ってくれたらいいよ…… で、そんなことよりさ、フレッドのお父さんの蛾のコレクションをまた見せてもらえないかな?」
「ホウ、表に出ないなら、その顔でも問題ないな。ホウ、しかも、あの部屋は薄暗いから好都合、ん、あの部屋で誰かに会うこともないか」

「ホウ、気が済むまでじっくりと観たらイイよ」
 扉を開けてくれたフレッドは、私が部屋へ入るとロビーから扉を閉め、私を独りにしてくれた。いや、フレッドはノートを読むので今は忙しい。とにかく、ゆっくりと独りこの空間で過ごすことは、この人に見せられない無様な顔を含めてちょうどよかった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み