1994年7月12日 [ 2 ]

文字数 1,443文字

 メニューの中で一番安い素うどんを二つ間に挟み、私達は向かい合っていた。疲れ切った身体に出汁の優しさが沁みる。
「まだここは関東出汁領域やな。出汁には、もう少し繊細さが欲しいところやけど――それで、五線譜ってゆうのは、つまり絶対音感の潜在意識下において現れるもんで、ちっちゃい頃からあったのに、どっか行ってもうたと」
「そうだね、どのタイミングから無くなったのか正確には分からないけど、調律している時はあったかな。いやでも、二回目の調律の…… 最後に海の光景を見た後は無かったか…… とにかく、ピアノが演奏した時には無かったはず、たぶん」
「ふーん、海…… それやったら、ワタシの演奏中にあった感情とか意識って、どんなんやったん? ほら、馬を見たって言ってたやん。他に普段あったもんを押しやる程のもんがそこにあったとか」
「うーん、正直に言うと…… とても怖かった…… あんな直接身体をすり抜けてゆくような音なんて出会ったことなかったし、何か金縛りになるっていうか、言うことを聞かなくなったんだよね身体が」
「それ、似たようなこと前に一度だけ言われたな。その人は、身体の中がぐちゃぐちゃになる気分になったって、でも身体は動かないし逃げられない。冷や汗掻きながら、ライブを観たの初めてやったって」
 気付けば、遠巻きに変な視線を感じていた。それもそのはずで、未明のサービスエリアに若い女二人がうどんをすすりながら、他人が聞いても全く意味の分からない話をしていれば当然だと思う。とくにピアノの声はよく通るので、食堂のこのホールによく響いていたかもしれない。

 人気のない売店にはこの地方のお土産物のお菓子の箱が高く積まれ、見慣れないそれらに随分と日常からの距離を感じさせられた。一つ手に取ってみてもやけに軽く、浮ついて現実感はなかった。そもそもお土産を買って帰る相手もいないのに、と元へ戻すと、結局、眠気覚ましのガムとメンソールの煙草、ホットの缶珈琲を買って外へ出た。雨は止むどころか勢いを増している。
「あっちの庇の下なら吸えるんちゃう」
 先に走り出したピアノに続いて小走りで庇へと駆け込んだが、髪や服は瞬く間に濡れ、買ったばかりの物が入ったまだ皴もないピンと張ったビニール袋の表面はたくさんの水滴で覆われていた。
 サービスエリアへ時折入ってくる車のヘッドライトに照らされ、衰えることのない雨が見て取れる。知らない土地で、今日出会ったばかりのピアノと並んで煙草を吸いながら、少しかじかんだ指を缶珈琲で温めている。当たり前に存在した五線譜は消え、これまでとは違った道の上に佇んでいる気がした。これもまた、私の選択なのだろうか。
 その時、頭上でパチッと音がし、見上げると青い光を放つ蛍光灯に、雨を逃れた蛾や名前も知らない虫が引き寄せられていた。おそらく虫の駆除装置だろうが、これを何と言うのか私は知らない。蛾もまた、今宵の私のように、訳も分からずここに居るのかもしれない。そして、生きている実感に最も近い瞬間だ、なんてことをクルクルと羽ばたきながら考えているのかもしれない。
 たくさん駐車している大型トラックの運転手達は、ぐっすりと寝ているのだろう。今は、もう寝よう。何も考えず。溝を流れる雨のように、この身を任せ。
「吸い終わった? パンダまでダッシュするで」
 忙しなくピアノは、先に雨の中へ飛び出した。私は何となく青い光をもう一度見上げ、蛾へ「バイバイ」と一言呟いてから、ピアノの後ろ姿を追って駆け出した。
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