1994年7月16日 [ 1 ]

文字数 2,445文字

 新しく買った服に袖を通す楽しみを久しぶりに味わいつつも、普段は着ないような原色の明るいTシャツには少し戸惑いもある。似合っているかどうかは分からないけれど、鏡に映る自分の顔が、いつもよりかは幾分血色良く見えるから色とは不思議だ。
「あっ! イイやん! ミチヨは明るい色も似合うなー」
 自分が思っているよりも、意外に人の評価は違うということで、気恥ずかしさはあるけれど、こういった機会もそんなに悪いものではないのかもしれない。
「はい、これミチヨの分の下着な。お金はいらんでー」
 なかなかお金を受け取ろうとせず逃げ回るピアノを捕まえると、私はすでに使っている下着の分も含めてお金を払った。
「えー、こんなにいらんのにー。えっ? 何? 油性ペン?」
 ピアノから黒い油性ペンを借りると、私の分の下着のタグに「M」と書く。全く同じ黒い下着ばかりを洗濯することになるなので、ピアノのと混同しないように。
「えー、イイなー、じゃあ、私の『P』って書いとくしペン貸して」
 何がイイのかは分からないが、まあ、これで間違うことはなくなった。
「あっ、そうや、ミチヨ、玄関来て」
 ピアノに付いて玄関に行くと、下駄箱からコンバースの黒いオールスターをピアノは差し出した。
「これ、あげる。ハイカットめんどくさくて全然履いてないし、革靴よりかは、少しは涼しいやろ?」
 貰ってばかりは悪いし、ピアノのだってきっと靴が減ると困るからと断っていると、ニヤニヤしながら、同じ黒いオールスターの今度はローカットを取り出した。
「だ、か、ら、ハイカットはあげる!」

 オサムさんの姿が見えないのでピアノに尋ねると、どうやら朝から出掛けているらしく、ほとんど寝ていないことを心配すると、私とは真逆で、ちょっとやそっと寝なくても大丈夫とのこと。時間がたくさん使えるのは羨ましいが、睡眠時間を削るのは私には到底無理そうだ。
 ピアノと二人で遅い朝食を済ますと、シンクに山盛りになった宴の残骸の食器や調理道具を片付けた。ここへ来てから洗い物担当を買って出て、食器から服まで様々な物を洗っているが、自分の家では感じない楽しさがあった。誰かの為に…… そんな分かりやすいことなのかもしれない。
「じゃあ、行こか」
 午後はピアノのお稽古があったので、先生の送迎係の出番。ちょうど、昨日聞いた船越神社の近くだということで、ピアノを生徒さんの家へ送り届けた後、地図を見ながら一人で向かうことにした。
 玄関に座り、ピアノから貰ったスニーカーの紐を締め上げると、大きな姿見に映るその姿は、つま先から首元まですっかり別人だった。この姿で東京を歩いても、誰にも気付かれないだろうと思ったけれど、そもそも、街中で私に気付くような知り合いなんていないことに気付いてしまい、どこか残念な気分に突き落とされる。マスターぐらいは…… と、ふと思い出したエッサウィラ。たった数日前の出来事なのに、変貌を遂げた今の私の格好、まあ、明日のことなんて誰にも分りやしない。

 ピアノとは生徒さんの家で別れた。近くの船越漁村の狭い住宅街の道を抜けた先に目当ての船越神社があり、黒パンダを停めて早速散策することにした。
 玉砂利を踏み鳴らす音だけが響く境内、それ程、大きくはない広さの敷地には、確かに馬の像があり、まじまじと色々な角度から、それこそ間近に、遠巻きに、じっくり眺めてみても、私が期待するような発見もヒントになるようなことも無かった。では、馬蹄石はというと、バスのタイヤ程の大岩に蹄の跡と伝わる二つの窪みがあり、正面下には小さな鳥居、そして、たすきを掛けられたように注連縄で祀られていた。この地域の人達に大切にされていることは分かるが、こちらにも、私の追い求める黒い雌馬の陰は見当たらない。私の受けた印象から、これは雄馬のように感じた。
 しばらく神社で過ごしたが、求めていたことはこれ以上なさそうだったので、私は漁村を散歩してみることにした。細かく入り組んだ見知らぬ道は旅の情緒をかきたてる。陽が傾く方へと歩けば穏やかな内海に面した小さな港、逆へと向かえば海岸線に沿った国道260号へすぐに突き当り、その先には、大波が押し寄せる外海、広大な太平洋の一端に私は居た。
 夏の海を連想してみればいい。抱いたままの景色がそこにあり、水平線の彼方に、天高く昇る真っ白な入道雲がそびえ、鈍い重さを携えた波の弾ける音が轟きを繰り返す。波程に分かりやすい自然の摂理もない。私達が現れる前から、そして、消えて居なくなる日をも越えて、波はやって来るのだろう。振り返ることもなく……
 コンクリートの防波堤の上で国道を背にし立っていた私は、後ろへと振り返った。今さっきまで歩いていた漁村の屋根が連なっている。ちょうど半島のボトルネックのような形になった船越は正に地名のごとく、船を担いで内外を往来出来る程の幅しかないように思えた。海の静と動の狭間にある場所で、私の感情もまた、往来を繰り返していた。

 ピアノを迎えに行くと、ちょうど訪問先のお宅の前で見送られているところだった。
「あっ、来た来た、先生のお友達」
 家の前に横付けした黒パンダの窓越しに、ピアノは小さな生徒さんへ私を紹介する。
「ミチヨおねえちゃん、こんにちは!」
 澱みのない真っ直ぐな視線と笑顔に多少の照れ臭さを感じながら、私も「こんにちは」と挨拶を返す。
「ミチヨお姉ちゃん、船越神社のお馬さんに会いに行ってたんやで」
「おうまのあしあといし、みてきたん?」
 お馬の足跡石、その素朴なネーミングを小さな子が発することで、かわいさは倍増だった。私の黒いお馬さんか…… 私が初めて見たのも、この子ぐらいの年頃だったと思い出す。
「見てきたよ。お馬さんは、好き?」
「うん、スキー。ピアノせんせいのおんがくは、くろいおうまさんが、いっつもいるんやでー」
 私とピアノは驚きの余り顔を見合わせた。一瞬の内に腕の中から湧き立った鳥肌は、さざ波のように過ぎ去っていった。
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