2004年8月2日 [ 2 ]

文字数 1,544文字

 時だけがいたずらに過ぎ去るも、私はまださっきまでと同じ場所に居るようだった。むしろ、これまでもずっと同じ場所に居たような錯覚すら覚える。歳を重ね、身体は確実に衰え、今は異国の地に滞在しているのに。では、いつから私はそこに居るのか、そこはどこなのだろう…… その答えは、簡単に見つかる。いつも、私はここに居た。

 淹れたての珈琲の香りを鼻に含んでから、窓の外を眺め、残り一本になっていた煙草に火を点ける。今すぐにでも私は外へ行くことだって出来た。これまでもそうだった。それなのに、私はそうしなかった。立ち昇る煙は、すぐに風によって掻き消され、行く末を見届けることは出来ない。それは、永遠に私をここへ留まらせているようで、私が求めている何かも煙と共に消え去った。

 断片的な記憶を拾い上げては、また投げ捨て、そして違うことを考える。眼に映ったベッドのシーツの皴が私の思考の邪魔をし、枕の位置は僅かに斜めになっていて、部屋が何より静かなことが少し不気味に思えてくる。私がさっきまで横になっていたベッドには、違う私が居て、もう、どこかへ行ってしまったような。ここに今居る私は、そこかしこを漂う大気と同じで、他と区分もなく、固有の名前もなく、やがてここに居ることさえも無意味に思え、巨大で広大な何かの一部分、むしろそのものとして私を実感しなくなれば…… 人は死んだら、そうなれるのだろうかと、ジョージさんのことを思い出す。

 キッチンの冷蔵庫は沈黙に耐えられず常に唸っていた。中身はほとんど入っていないのに与えられた役目を健気に務める。水のペットボトルを取り出し、ガラスのコップへ注ぐと、冷えたコップの表面は結露した。大気の中に紛れ隠れていた私は捕らわれ戻される。とても静かな時間に私以外の人は誰も居ない気がする。実際に誰の気配も感じない。もう、ここには誰も居なくて、みんなどこかへ行ってしまったのだろうか。

 「EXODUS」のページを捲りながら、私が生まれた頃に出版されたことについて考える。ほぼ同じ年数を過ごし、今こうして私の手の中にあるが、値段からして全く人気も価値も無さそうなこの本を世界中で持っている人は私の他にどれだけ居るのか。世界のどこかの本棚の中で眠っている本はあっても、今日、私の他にこの本を開いた人は居るのだろうか…… 今日、世界中のどこかで私のことを思い出した人は居るのだろうか。

 サマータイムの日没は、まだやって来ない。本当は、今この世に私しか居なくて、永遠に続く昼間を過ごしているのなら、そんな悪夢はすぐにでも覚めて欲しかったが、遠くに聴こえた車のクラクションがそんなことは無いんだと空想を打ち消した。音は「B」。

 ベッドで横になったり、椅子に座ったり、煙草も無く、自室とキッチン、ときどきバスルーム、「EXODUS」の中、「EXODUS」の過去、「EXODUS」の後ろ姿、「EXODUS」の背表紙、「EXODUS」のカバー下…… 本のカバーを捲ると、そこにはただ一言「I am not here anymore. \ 私はもうここに居ない」とあった。それが何を意味するのか、真相は私には分からなかったが、ふと頭に浮かんだことで突然溢れ出した涙は止まらなかった。

 陽が暮れて、空腹でもないのに食事をし、珈琲を飲みながら、私は今日という日が、存在したのかさえも分からなくなっていた。しかし、一日なんてどこかの誰かが決めたことで、私はこうして長い時の流れの途中に出来た淀みに居ただけだったのかもしれない。
 シャワーを浴び、寝支度をし、ベッドに入ると、やがて私は眠りに落ちる。雨が降り出したような、それとも夢の中での出来事か。

 誰にも会わなかった。結局、アツカネは帰って来なかった。
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