1994年7月13日 [ 3 ] 

文字数 3,382文字

 家の外で私を待ち構えるように仁王立ちしていたピアノは「こっち!」と、ここへ入って来た小路とは反対の家の裏の方へと先に歩いて行った。私は導かれるがまま、ピアノの後ろに付いて行くと、芝は家の裏手から小石の混じる赤土へと変わり、草木に覆われた獣道のような道筋が現れると緩やかに下へ向かい傾斜し出した。
「所々、ぬかるんでるし、気ぃ付けて降りやー」
「――ヒャッ!」
 ピアノの忠告も虚しく、私は言われたと同時ぐらいで尻餅をつき背中からぬかるみの中へと倒れ込む。
「つぅ…… 痛ぁ……」
「大丈夫か! ミチヨ!」
 幸いにも頭は打たなくて済んだが、手を突いて起こした身体は掌も腕も泥だらけで、黒いパンツはいいとしても何より最悪だったのは、一張羅の白いTシャツの背中を赤く染め上げたことだった。
「もう、言わんこっちゃないな、ほら、よっこいしょ」
 ピアノの手に引き上げられた私は、垂れ下がった前髪を無意識にかき上げた拍子に、額へと赤土のラインを引き込んでしまう。
「どこぞの部族や、ミチヨは!」
 先に下るピアノの笑い声の後を追いながら、ここまでボロボロになった自分があまりにも可笑しくて、私もつい笑いが込み上げてきた。
 辺りには、度重なる海風を受け陸の方へとお辞儀をするように曲がり育った松が点在し、太陽に蒸され醸し出されたその細い松の葉の甘い香りが風も無く沈んでいた。その場で見上げた空は夏の始まりを告げるどこまでも濃い青さで、すぐに乾き出した額の赤土が引きつる感触と容赦ない陽光の照り付けに、肌はとてもヒリヒリとした。

 坂を下り切ると海だった。養殖か何かの筏がいくつか海上に揺られ、海から生えた巨大なブロッコリーのような切り立った地形の入り組んだ景色は、それが島なのか半島なのかさえもここからは判別出来ない。穏やかで優しい小さな波が、歩くと擦れてカチカチと音のする小石ばかりの浜でチャプチャプと遊び、ここは秘密の入り江といった場所だった。無言のまま立ち尽くす私にピアノは何も言わない。この景色を前にした言葉の説明なんて陳腐なのだと思う。こういう時は、ただ見たままを素直に浴びればよかった。

 気が済むまでしばらく眺めた私が振り返ると、ピアノは木陰で足を伸ばして座り休んでいた。
「どう、気に入った?」
「うん」
「よかった。じゃあ――」
 ピアノは突然立ち上がると、着ていた黒い麻のゆったりとしたワンピースを脱ぎ捨てたので、私は何事かと驚いた。黒い下着だけの姿になったピアノは「さあ、泳ぐで」と言い残し、細くて真っ白なその素足は、私を置いて一人で海へ向かって元気に駆けていった。

 バシャバシャと飛沫を上げながら泳ぐピアノを遠くに見ながら、私は一体何をしているのだろうと考えていた。突拍子もないピアノの行動に対してそう思ったのではない。何も出来ず、ただ座っているだけの自分があまりにも馬鹿げているように思えたからだった。
「ミチヨー、気持ちイイから、早よおいでー」
 海面から覗くピアノの小さな顔は、それだけを言い残すと、再び海の中へと消えていった。
 頭上から射す容赦のない太陽の照り付けが、側に脱ぎ捨てられた抜け殻のようなピアノの黒いワンピースが、翼を広げ天高く旋回する一匹の大きな鳥の鳴き声さえもが、じれったい私を急き立てる。望んでここへ来たわけではなかったが、ただ眺めるだけではなく、内側へと飛び込むことで、何か私の知らないところへ行けるのだろうか。いや、もうすでに中へ入っているのかもしれない…… 今日、二度目となる靴と靴下を脱ぎ捨て、パンツのポケットに入っていたハンカチを取り出し、さすがに裸になるのは抵抗があったので着の身着のまま、浜の小石の上へ小さく一歩を踏み出す。
「熱っ!」
 足の裏から伝わる小石の焼けるような熱さ、ピアノが浜を駆け抜けていった理由、それがようやく分かった私も勢いよく波打ち際まで走ると、そのまま、どうにでもなれとばかりに海へと飛び込んだ。

 海なんて入ったのは、いつ振りだろうか。数える程しかない古い記憶を辿ってみても曖昧で、小学生の頃のいつかの夏休み、それも砂浜のビーチパラソルの下で眺めた遠い海とつまらなそうにしていた私の耳に聴こえる人々の沸き上がる楽し気な声と潮騒が微かに浮かぶぐらいだった。怖くて少し足を浸しただけですぐに退散した幼い頃の私にとって、海は決して親しいものではなかった。だけど、あんなに怖かった海に全身を包まれている今の私は途方もない存在の一部のような気がしてきて、心は雄大な時の中へ一体となり引き込まれてゆく。
 真っ直ぐ海中で伸ばした私の腕には投射された水面が映し出され、ダリの描いた時計のように歪んだ楕円が留まることなくグニャグニャと変化し、踊るように揺れる海藻へ射し込むいくつもの光の筋は、クラブの照明のようにパッ、パッと明滅を繰り返していた。この二日間の汗や垢、服を染め上げた泥さえも、全ては一緒に溶けてゆく。私はもっと深くにある何かを知りたくて、勢いよく潜ろうと水面の辺りを蹴った音はバスドラムよりも低く鈍くて新鮮だったけれど、全く続かない息と体力に、これ以上は諦めるしかなかった。

 すぐに泳ぎ疲れた私は浅瀬へと戻ると波打ち際に腰下ろし、結局、まとまらなかった考えに浸っていた。日常ではまったく気付けない、このような時の移ろいに私はこのちっぽけな人生の内、あと何度出会えるのだろうか。足の裏をくすぐるように寄せる波が、しつこく私に問い掛けるけれど、乾いた肌に落ちる髪の滴が干上がるまでに分かるようなことではなかった。
 静かだった。独り思案する誰も居ない浜辺は、小さな波の音さえも時が吸収し―― ピアノの姿が見当たらない! 急に訪れた不安に私は辺りを見回したが、狭い入り江にその姿はなく、穏やかな海をくまなく凝視してみても気配すら感じない。焦って、とにかく立ち上がった私は、より遠くまで見渡してみたが見つからない。嫌な感情と考えたくもない駄目な想像が、一気に身体中を駆け巡ったその時、私のすぐ側の海中から勢いよく現れたピアノは、乱れた息を整えながら立ち上がると、私を見てこう言った。
「ハァ、ハァ、ハァ…… 頭に浮かんだ曲が終わるまで、ハァ、ハァ…… と思って潜ってたら、意外に長いし…… 全然終わらんくて焦ったわ。ああ、疲れたぁー!」
 いつでも音楽を考えているピアノ。五線譜も失った私は、これから何を考えるの…… 木陰へと戻った私達は、その場に座り込んだ。
「水、飲む?」
 ピアノが差し出すガラス瓶を受け取ると、手の中の硬質なその感覚は私を拒絶するかのようだった。そんな思いのまま喉に流し込んだのは水というか、生温いお湯になっていて、残り少ない全てを飲み干し空になったガラス瓶の沈黙が、これまた見事に後味の悪さを引き立てる。ガラス瓶の方が明らかに、今の私よりかは役に立ちそうな面構えをしていた。

 今度こそ一度も滑らずに家へと無事に戻った私とピアノは、裏手に備え付けのホースで水を浴びた。キシキシする髪は、小学校のプールを思い出す。そして、脱衣所へと繋がる家の裏口のドアを開けたピアノは「お客さんだから先!」と遠慮する私の両肩を掴んで無理やり浴室へと押し込み扉を閉めた。ベージュ色をしたタイル張りの広い浴室、高い窓から射す昼間の光は淡く、窓の手前のスペースにも小さな鉢に入った植物がいくつか置かれていた。浴室の半分は足も伸ばせる長い湯船で、人差し指を浸すとオサムさんが沸かしてくれたお湯は暑い夏にちょうどよい温度だった。
「ミチヨー、洗濯機の上にバスタオルと着替え置いとくからー、服はワタシのやけど、下着は新品やし心配しんといてー、あと、シャンプーとリンスとコンディショナー、それと、そう、ボディーソープも、好きなだけ使ってイイしなー、洗顔ジェルもー、服は洗濯機入れといてー、あとで洗うからー、ゆっくり浸かりやー」
 ドアの擦りガラス越しに言うだけ言ったピアノが立ち去ると、浴室独特の湿気を含んだ空気感の中に残された私は、とにかく濡れて肌にまとわりつく服を一枚一枚脱いでいった。脱ぎ捨てられ積み重なった汚れた服は、すでにこの世には居なくなった私の亡骸のようだった。
 そして、湯上りにさっぱりして着たピアノの服は、どこか他人になったような気がした。
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