1994年7月18日 [ 2 ]

文字数 1,989文字

 岬の風が強く激しく吹き荒れ、磯の香りを巻き上げる。この過酷な環境に立つ白い大木は、安らぎを与えるが何も言わない。ただ、黙ったまま、何を想うのか。別れ際に、振り返り見た灯台は、やはり淋しそうに映った。

 安乗崎からの帰り道、ガソリンも減っていたので見掛けたガソリンスタンドへ黒パンダの笹補給に立ち寄る。給油機に黒パンダを横付けすると、事務所前の日陰に据えられた椅子へ気怠そうに座っていたパーマ頭をリーゼント風にセットした日焼け顔の男が立ち上がり、こちらへとのんびり歩いて来た。
「よっ! 若いお姉ちゃんが二人、イタリア車転がしてよ、俺の店にやって来てくれないかな、なんて考えてたら、ほんとに来たよ。今日は、なんてイイ日なんだ」
 陽に焼けた肌に刻まれた皴で若くはなさそうに感じたが、その高い鼻のせいか本物のイタリア人のようにも見え、軽い感じの言葉にも不自然さはなかった。
「ハイオク満タン、現金でお願いします」
「お兄さんさ、そんなにイイ日やったら、サービスしてもらわんと!」
「任せな、とびきりキレイに窓拭いとくからよ!」
 男に給油口の鍵を渡すと、手慣れた手付きで作業を始める。袖を全て切り落としたつなぎから出ている痩せ細った腕には筋肉が盛り上がり、風貌といいボクサーのようだった。
「灰皿は? ゴミもあるなら貰うよ」
 ジリジリと鳴く一匹の蝉の声、漂ってくるガソリンの匂い、停まった車内の暑さ、男の嘘みたいなセリフと無駄のない演技、それは何だか映画を観ているような気分で、これは勝手な私の想像なのだろうか。
「さっきも通ったけど、安乗崎の帰りかい? どうだ、イイところだったろう?」
 私達が灯台へ向かう時から男は見ていたのだろう。こんな行き交う車も少ない道にパンダが通れば、眼に付くのも当然だったかもしれない。
「海はイイぜ、どこへでも行けるからな。いつかイタリアへ行って、生き別れになった家族と会いたいぜ」
「ほんとに、イタリア人なの?」
「何、バカなこと聞いてるんミチヨは…… まったく」
 男は指をパチンと鳴らすと、笑いながら事務所へレシートを取りに行った。

 男に見送られガソリンスタンドを後にした私達に行き先はなかった。ただ、うっすらと蝉が鳴くのどかな道を走り続ける。ピアノは何も言わない。どこへ行くのだろう。自分の行き先すら分からない私は、とにかく来た方角とは違う方へと車を走らせ続けた。
 先日訪れた駅前へと辿り着いたところでピアノは突然、道を指示し始めた。私は黙って従う。行き先のない午後が終わってくれるなら、もう、どこでもよかった。
 国道から道を逸れ、坂道を上る。山の中へと続く道は、私をなぜか不安にさせる。行き先についてではない。私をさらけ出すようで、そう思う。それは、この志摩の太陽へ少しでも近づく行為だからだろうか。陽光が私の何もかもを暴くからだろうか。無情にも坂は続き、やがて林の中の駐車場へと辿り着く。
 黒パンダから降りたピアノの後を追って山道を少し登ると、そこは横山展望台と呼ばれる場所だった。景色が良い場所だからピアノは私を連れて来てくれたのだろう。だけど、私の眼の前に広がる景色は何も言わない。それどころか、英虞湾に点在する島々が私の内に潜む悩ましい事柄のようにさえ思えた。
「ここって、景色のイイところ…… かもしれんけど…… ミチヨには、どう映る?」
 何となく意外なことをピアノは言った気がした。てっきり私を喜ばせようとしているとばかり思っていたので、明らかにそうではなさそうな声のトーンが、今の私へすんなりと届く。
「そうね、何か考えさせられちゃう…… 何だろうな、不安なのかもしれないな……」
「そう……」
 それ以上の言葉はなかった。私達は黙ったまま景色を、いや、何か景色に重ねた異なるものを見ていたのかもしれない。山に居るのに海を見ているアンバランスさがそうさせるのか。それとも、さっきまで見ていた岬に建つ灯台の孤独の余韻を引きずっているのか。
 ずっと眺めていた景色の中に、やがて私は音を失った。山に吹く風が揺らす木々のざわめきも、蝉の声も、時折訪れる観光客の歓声も、何もかもを失った。ただ、眼だけが、動くこともない湾に浮かぶ島々をじっと認める。これが何も意味するのかなんて分からない。でも、その間、私は確実に独りで、ここではないどこかから私の眼を通して、私を見つめていた。そういう気分だった。

 何時間でも見つめていられそうで、その危うさが私を逆に引き戻す。
「ピアノ、もう下りよう……」
「うん、そうしよ」
 妙な時は、実時間で一時間程も経っていた。駐車場の黒パンダのドアを開けると、こもっていた熱気が溢れ出す。私は、ふと辺りを見上げた。忘れていた音は帰ってくる。初夏の光を浴びた背の高い木々は、フェードインしてくる蝉の声につられ、勢いの増すその枝葉を風に遊ばせていた。
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