1994年7月11日 [ 4 ]

文字数 6,656文字

 ライブが終わってからも私は呆然としていて、どれぐらいの時間が経っているのかも分からなかった。すでに女の姿はステージにはなく、気付けばお客さんも誰一人として居ない。マスターは、また忙しそうな素振りで洗い物をしていたが、洗剤にまみれたガラス玉の指輪が余計に安っぽく見えた。
 まだ、ぼんやりとしている頭でいくらライブを思い出そうとしてみても、霧に包まれたように捉えられず、黒い馬の印象しか残っていない。しかし、その馬もすぐに走り去り、もうここには居ない。なぜ、黒い雌馬は現れたのか、調律を始める前に昔のことを思い出したからだろうか、それとも、調律の出来が引き金になったのだろうか、もしくは、あの女の演奏なのだろうか……
 何気なしに、手元にあったエッサウィラの簡素なマンスリースケジュール表を手に取ってみても、今日の日付のところには何も記されてはいなかった。女が何者かも分からず、なぜ、あれだけずっと演奏し続けたのか、さらに、ライブの構成や曲について何もかもが気になるけれど、色々なことがまとまらないこの頭では、どれだけ考えてみても無駄に感じた。
「さてとね、美千代ちゃん。コーヒーでも飲まない?」
 小さく頷いた私は、カウンターから出ると、マスターと向かい合うようにカウンターの椅子に黙って座った。上手く声を出すことも出来ず、話すべき言葉は何も浮かばない。マスターが電動式のミルに珈琲豆を入れるのをただ眺めながら、大きな音を立てた豆が挽き終ってようやく、BGMがうっすらと鳴っていたことに気付いたぐらいぼんやりとしていた。確かに私の身体はここに居るのだけど、身体中の色々な器官もぼんやりしている。
「ほら、今夜の主役が出てきたわよ」
 今日、女と出会ってから、もちろん、この展開を予期してはいなかった。調律代を請求してとっとと帰ることだって出来たはずなのに、それを選ばなかった。自分の身に起きたことや、女のことを確かめるまでは、もはや元の生活には戻れないような気もしていた。
「ますたー、白ワインちょうだい」
 拍子抜けする程、緊張感のない声が私のすぐ横から割り込み、女は自然に私の隣の席へと腰掛ける。うつむきながら塞ぎ込んだ私の頭は何もかもがまとまらず、勝手に頭の中がごちゃごちゃしていて何だか馬鹿みたいにさえ思った。何か言わなきゃ始まらないと、考えあぐねていたところにマスターが一言。
「美千代ちゃんも、ピアノちゃんも、確か二十五歳でしょ?」
「ピアノ?」ようやく出た私の声は完全に裏返り、同時に情けなさと恥ずかしさも込み上げてきたけれど、それよりも「ピアノ」って何なのよ、ということが勝って、モヤモヤしていた全てのことはすっかりと吹き飛んでいた。
「へー、同いなんや。最近あんま同いの人に会わへんかったし珍しいな」
「そうなのよ、ウチの店に出入りする人で若い女の子なんてほんと珍しいから、ちょうどイイわね、あなた達!」
 なぜか二人の間で勝手に話は進んでいるけれど、歳のことなんてどうでもよくて、私は「ピアノ」と呼ばれていることが気に掛かって仕方がない。
「ふーん、そうなんや。で、調律やけど、あれはスゴイで、ビビった。何なんコレって、久しぶりに思ったもん」
 その話をしたいのは山々だけれど、その前にまず、私は「ピアノ」の方をはっきりさせたくて、
「ピアノ……って、何?」と、振り絞った声で馬鹿げた質問をした。
「えっ、楽器やん」
 ここで、まさかの沈黙の訪れだった。マスターは黙って珈琲を淹れているし、女はきょとんとした顔でグラスのワインを口に含んで、ゆっくりと飲み込んだ。
「ウソ、ウソ、ごめん、自己紹介してへんもんな、ワタシ、ピアノって呼ばれてるねん」
 そういうことではなくて…… 何でピアノになったとか、私が知りたいのはそこだった。けれど、何となく…… 自分の求めることや、自分のこだわりみたいなものを他人に強いることで、自分の知り得ない可能性や方向を自ら消しているのでは…… と、女の屈託のない笑顔の奥に、そのような、私に問い掛ける声があるような気がした。でも、ピアノって、何てふざけた名前なの!

「はい、こっちは、ピアノちゃんの今日の出演料ね、で、こっちは美千代ちゃんの調律代ね。領収書置いとくから、適当に書いておいてね。それでね、悪いけど、美千代ちゃん、今日の分は、ちょっと待ってくれない? ねっ、お願いちゃん! それと、お客さん来たらね、事務所に居るから大きな声で呼んでね! あっ、ピアノちゃん! ボトル残り少ないから飲んじゃってかまわないわよ! 出演料のおまけね!」
 もう一人、ふざけた奴が、ここにいた! 珈琲の入ったマグカップを片手にマスターは、小部屋へ声と共にフェードアウトしていく。
 店内に取り残されたピアノと私は、この成り行きに意表を突かれ、黙ったまま顔を見合わせると、手渡された自分の封筒の中身を急いで確かめた。
「うわぁ、千円が、いち、に、さん、よん、少なっ! って、あるだけましか」
「これって、三回分しかないじゃない! 今日とは別に、あと一回あるはずよ!」
 しっかり閉ざされた扉へ向かって叫んでみても空虚なだけで、しっとりとしたジャズのBGMが、ちょうど終わっていった。すると今度は突然、おちゃらけたトランペットの音と共に軽快にスウィングするジャズのイントロが始まった。それは見事に、この無様な二人に与えられた、ちょっとおかしなテーマ曲のようで、馬鹿馬鹿しくなった私達は思わず同時に吹き出し、顔を見合わせた二人は大爆笑だった。
 人と仲良くなる瞬間って、こんな些細なことがきっかけなのかもしれない。そして、そんなことも、大笑いしたことも、久しくなかったなと私は思った。

 まだ済ましていなかった自己紹介を改めてしたところで、ピアノは私を質問攻めにしてきた。
「なんで、ミチヨは調律師になったん?」、「あの、調律はどうやったん?」、「今日の演奏、どうやった?」等々。
 私はまず、調律に出会ったきっかけとなった、あのおじさんの話をした。すると、ピアノは急に大人しくなり、黙って私の話を聞いていた。その横顔に、さっきまでの笑みはない。
 次に今日の調律についてだが、これは正直、私も分からない。普段であればすることもない、やり直しをしたことで格段に良くなったことや、水を途中で飲んだこと、そして、これまで気付きもしなかった細かな感覚を発見したこと、それらを断片ながら、ありのままに話した。これについては、始めからなぞる様に説明しながらも、むしろ私が理由を知りたいぐらいだった。ピアノは相変わらず黙ったまま、険しい顔で聞いているだけ。
「そして、演奏だけど…… 何て言えば良いのか、言葉が思いつかないのだけど……
 何だろうな……」
「何でもイイで、悪いことでも何でも、思ったこと言って」
「悪いことはなかったかな。ごめん、上手い言葉が思い付かなくて…… 思い付いたら言うけど…… でも…… 私のことで申し訳ないのだけど、黒い雌馬が…… 見えてさ――」
「ウマっ!」と、かぶせるように発したまま、驚きの表情でピアノがこちらを見たので、これは完全に馬鹿なことを言った、それも初対面の相手にと後悔した。
 委縮した私は、ピアノの畳み掛けるさらなる質問に及び腰で、ついうっかりと調律でこの先やっていけるかどうかの不安も口にしてしまった。これこそ、今日初めて会った相手に言うことではない。すると、ピアノは席を立ちながら、「じゃあ、さっさと辞めれば」と言い残し、トイレへ入っていった。独り残された私は、ぬるくなった珈琲を口に含みながら、胸がキュッと締まるような心持ちだった。さっきまであれほど鈍かった感覚が、今となっては愛おしい。

 大した時間も経っていないのに、こんな時はやけに長く感じる。こちらから見えるところに店の時計はなく、いつも腕時計を持たない私は、余計に惨めな時を味わっていた。グルグルと嫌なことばかりが頭の中を回り続け、お酒でも飲めれば少しは違ったかもしれないけれど、パンダのことを想うと、眼の前にたくさん並んでいるお酒すら嫌味にしかならない。
「じゃあ、今度はミチヨがワタシに質問する番な」
 トイレから出てくるなり大きな声で私へ話し掛けるピアノは、勢いよく席に着くと、空になったグラスへ早速おかわりを注いだ。何もかもが気持ち良い程に、はっきり、すっきりしているピアノが羨ましく思った。ふと、浮かぶのは、そんなピアノにも悩みや不安はあるのだろうかということ。これは、嫌気が差すぐらい私らしい質問だった。
「そんなん、あるに決まってるやん! 音楽辞める気はないけど、かといって全然儲からへんし、貧乏。続けてても、理解される当てがあるわけでもないし。でも、今のところ、やりきったなんて言えへんから、どんどんやってくしかないな、世界進出とか?」
 現在地は、さほど変わらないと思えるのに、明らかにピアノの向いている方向は異なっていた。今は背中合わせでも、ここから別の方へと行ってしまう淋しさを感じた。
 何となく黒い馬と再会したことで、タイミングよく自分の中に区切りを付けようとしている無意識の私が居るのか、むしろ、訪れた機会を都合よく解釈し、恐怖の先をろくに確かめもせず、安易で平穏に映る道へ事を運ぼうとしているのだろうか私は。このエッサウィラの暗い片隅に、あの日の幼い私を置き去りにし、それで、これから先、これは誰が生きる人生なのだろうか。これまでの私を捨て、これからの私が暮らしていく姿を想像すること、さらに、それを選ぶことは本当に可能なのか、そうしたところで、これまでと断絶した私は何者になるのだろうか。
 何かノイズに近い、自分の嫌な思考がギッシリと頭の中を埋め尽くそうとしていく中で、ピアノが意図していようとなかろうと、ピアノとの会話がそれらを的確に排除している気がした。これは何かに近い、似ている何かがある…… でも、分からない。

 時間を忘れて話し込んだ時間は、さっきまでとは対照的に短く感じる。
 さすがに終電も差し迫っていたので、まだまだ話し足りなかったが、私の方から話題を切り上げ、帰宅を施した。
「そうか…… しゃあないな…… ミチヨも帰らなあかんもんな」
 素直なピアノの表情からは、言葉以上の残念さが伝わると同時に、それだけではないような、何か口には出していない事情もありそうだった。
「よし! 帰るんやったら、せっかくのご厚意に甘えて、おまけの出演料とやらを頂戴させてもらうとしますか!」
 ピアノは空になった白ワインのボトルを脇へ追いやると、カウンターに並んだ他のお酒のボトルを手に取り、何やらライトにかざして吟味し始めた。
「これは、OK、これは、あかん。これも、まあ、ええか、これも、まあよし、これは、ギリギリ大丈夫、これは、譲れない」
 集められた五本のボトル、ピアノは躊躇することなく、あの黒い袋にガチャガチャと音を立てながら次々と入れ始めた。
「ちょっと、何してるの?」
「何って、ますたーが、残り少ないボトルはおまけの出演料って言ったから、ざっと見繕ってこんだけは、いただかないと、ね!」
 悪い笑顔だ…… ケチなマスターを逆手に取りながら、素直さ全開のピアノ…… 恐ろしい……
 準備万端とばかりにピアノが肩から下げた袋は、見るからにずっしりと重そうだった。それで電車に乗って帰るのもあまりに大変そうだし、少しぐらい話の続きもしたかったので、もし迷惑でなければ私が車で家まで送るよ、とピアノに提案した。
「ウソ! 車なん? マジで? お願い! ホント! ヤッター! ミチヨ最高やん!」


 エッサウィラを去る前にピアノは、先に書いた領収書とは別にもう一枚マスターへ領収書を書き残してきた。金額欄には、「残り少ないボトル×5本」と記され、あとは「ピアノ」とだけ署名があった。私が最初の白ワインも含めると六本じゃないかと指摘すれば、「+最初の残り少ない(微々たる)白ワインのボトル」と金額欄の下に書き足した。
 マスターへ帰りの挨拶をすれば犯行が発覚するので、ピアノは「とっととズラかろう!」と、飲み掛けのワイングラス(これも出演料のおまけかしら? 領収書には書いてない!)を片手に急いで外へと飛び出した。私は「マスター、ゴメン!」と事務所の扉に向かって心の中で呟きながら、最後に、誰も居なくなってポツンと佇むグランドピアノを眺めた。見方によっては黒い馬にも見えなくはないが、やはり、それは、ただのピアノだった。では、ただのピアノではない方のピアノはというと、遅れて地下から上がってきた私を、店の前の路地と小さな通りが交わる角でビルの壁にもたれながら、煙草を片手にこちらへ手を振って待っていた。駐車場までの道すがら並んで歩いていたピアノは、信号のない横断歩道(今まで何度も通った道なのに存在すら気にもしていなかった)で突然立ち止まると、横断歩道内の黒いアスファルトの部分とその上に引かれた白い部分とを吟味しながら、ジャンプして白線を飛び越えたり、踏んだり、そうかと思えば、引き返して黒い部分を踏んで、またジャンプしたりした。その度に袋の中のボトルはガチャガチャと音を立てていたが、酔っぱらって遊んでいるのだろうと微笑ましく見守りながら思った。駐車場でパンダを出してもらう(いつものおじさんだった)と、ピアノと私は乗り込み、ネオンが煌めく夜の街を出発した。

「ねえ、どっち行けばいい?」
「地図ある?」
 ピアノは地図を開き、過ぎ行く風景と地図を眼で行ったり来たり追いながら、向かうべき通りの名前や曲がる交差点を指示し始めた。幸い西へ向かっているようで、私の家と方向が同じで少しホッとした。
「こっちからか、いや、こっちの方が、こうで……」独り言をブツブツ言いながら、ワイングラスを片手に地図とにらめっこしているピアノをよそに、ただ黙って運転をしていた私はいつものように考え事をしていた。今日初めて出会ったピアノ、まだ、ほんの数時間しか経っていないのに、私にしては珍しく仲良くなって、初対面なのに、お互い言いたいことを言って(ほぼ言われてばかりか)、今はこうして私のパンダに乗って、家まで送っている…… パンダに乗って…… そういえば、左ハンドルなのにすんなり助手席へ間違えずに進み、初見だと分かりづらいデザインのドアを簡単に開けるピアノって、案外、周囲の状況や物事をよく観察し、瞬時に理解しているのだろうと思って感心した。だとすると、あの横断歩道の奇行も酔っぱらっていなかったのか。それでは、あれは何だろうかと思い返していると、ピアノが口を開いた。
「それで、今日の私の演奏について、上手い言葉は思い付いた?」
 運転中だったのでチラリと助手席へ視線を移すと、ピアノは、まだ地図をじっくり眺めていた。しかし、開いていたのが日本地図を一面に大きく印刷した見開きのページで、それがちょっと面白かった私は、つい笑いそうになった。
「まだ、思い付かないかな」
「そう」
 もうちょっと話が出来ると思っていたのに、ピアノはナビに掛かりっきり(日本地図なんか見て、どこまで行く気だ!)で、ときどき指示を出す以外に話さなかった。それはそれで仕方ないし、また今度、別の機会を設けて会えば良いかと思っていた。そちらの方が、またじっくりと話せるし、想像するだけで、友達みたいで嬉しかった。そんなことを考えながら、随分と走っていると、ピアノが指を指して、
「ハイ、そこの交差点、左」と、言った。
 私は言われるがまま左折すると、曲がってすぐに大きなトラックが事故なのか何なのか分からないが左車線から二車線分にまたがってハザードランプを点けて止まっていた。
「ちょ、ちょっと、邪魔!」
 とにかく慌てて私はハンドルを切り、かろうじて空いていた一番右側の車線へと移動したが、眼の前に続く道は何だか変だった。
 緩やかな上り坂、道の両側に先まで続く特殊な銀色のフェンス、気付けば側道へ逸れるのは手遅れ、パンダの頭上を緑色の看板に白字で記された「東京インター」という立派な文字が呆気なく過ぎ去っていく。
「ちょっと! これって、もしかして、高速道路乗っちゃうんじゃないの!」
 運転中なのに、私はその時、しっかりと助手席のピアノの顔を見た。あの屈託のない笑顔でピアノは嬉しそうに「ミチヨ、正解!」と言った。
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