1994年7月18日 [ 3 ]

文字数 1,996文字

 夕暮れにはまだ早い時間、このまま真っ直ぐオサムさんの家へ向かう気にはなれなくて、けれど、どこかでお金を使って過ごすのも気が進まず、結局、私達は海を見に行くことにした。目的も無く海へ行く、目的ばかりが乱立する東京しか知らない私にはなかった選択だった。

 太平洋岸沿いの道を適当に流しながら、人影のない小さな集落の片隅に黒パンダを停め、静まり返った家々の隙間を縫う細い道を抜け、防波堤の上に立ち、浜を見下ろしてもそこには誰もいなかった。ピアノも訪れたことのない、名前もあるのかどうかさえも分からない小さな浜は太平洋に面し三百メートル程続いていた。ピアノがサンダルを脱ぎ捨てて浜へ下りて行ったので、私も靴紐を解き靴下を脱いで素足のまま、まだ熱を帯びた浜へと踏み出す。沈み込んだ指の間にまで伝わる砂の感触や足の裏をくすぐる浜辺に育つ草の茎、偽りもなく大地に立っていることを実感する。全てのことに意味があることを今さら知った足取りはおぼつかず、ふらりふらりと確かめるように私は進んだ。
 ピアノは波打ち際で立ちすくみ、足を海水と戯れさせ遠くの海を眺めていた。昼間に見た海女さんの過酷な光景を恐れた私は海に近付けず、波が浜へと押し上げた様々な物の跡を辿るように歩いた。木や海藻、ゴミが描き出す境は、浜に波の跡を残している。それらは日光を浴びて干上がり、存在そのものすら焼かれたように、形はあれど空っぽに見えた。まるで今の私か、成れの果てか。
 一本の流木に眼が留まる。あらかじめ、ここへ用意されていたのか、もしくは、私を待つために居たのか、少なくとも、無視して通り過ぎることは出来ない三十センチ程の歪な形をした流木だった。拾い上げ表面に付いた砂を掃うと、サラサラしているようで、潮のギシギシしたどこか引っ掛かるような手触り。しばらく手で撫でながらつぶさに観察をしていると、益々私に思えて仕方なかった。
 流木を手にした私は、試しに砂浜へ五本の線を平行に引き、左端にト音記号を書き入れた。ただ、そこへどんな音を落としていいのかが分からない。辺りには、波や風、鳥、蟬の鳴き声さえ響き渡るのに、どれも私の興味を引くことはなかった。


 波が足元を行ったり来たりしてて、ワタシも呼応するように呼吸する。背後からワタシを照らす太陽が影を落とすけど、波打ち際の泡にまみれて形は定まらへんし、何度も連れ去ろうとする…… でも結局、連れ去るのはワタシの影じゃなくて、ミチヨなんやろな…… 今日もまた陽は暮れて、一日は過ぎてって、いつか来る終わりの日にまた近付いた。こんな時、他のことは何も浮かばへん。音楽も明日も、どんなことになるか分からへんけど、これまでとは違うワタシがすべきことって何なんやろ。結局、ワタシはいつまでも波打ち際で、こうやって海を眺めてるだけで、人生は終わっていくんやろか。黒い馬か……


 防波堤の上で仰向けに寝転がり、暮れゆく空を眺めているとピアノもやって来て、同じように黙って寝ころんだようだった。背中から伝わる日中に熱せられたコンクリートの温もりは、湯船に浸かっているような心地良さがあった。刻一刻と移り変わる空の色彩、どこか遠い所へ向かう飛行機がライトを明滅させながら視界を横切ってゆく。あの飛行機の乗客のせめて一人ぐらい、地上から見つめている人間がいるかもしれないと考えたりするのだろうか。飛行機の飛んでいるもっと先の空で瞬く星や、さっき五線譜を描いた砂の一粒ように、私もまた、数多の内の一つとして、ひっそりと時を過ごすだけなのだろうか。
 星はじっと眺めているとチラつき、まばたきをすると何もなかったように輝きを取り戻した。夜の始まりへと向かうたくさんの星々は、全体を一度には捉えることが出来ず、眼によって追う先々で揺れるように光度を増していった。やがて、海の彼方から風に乗ってやって来た夕陽に染まる薄い雲が星々を隠し、私の思案さえも覆ってしまう。私はただ、時の移ろいの中に現れた思考が断絶する一瞬の狭間で、手の中にある流木のように浮かんで漂う。
 音は、どこへ行ったのだろうか。私の見上げている空に月は煌々と輝いてはいたが、答えはありそうにもなかった。空を徐々に支配してゆく深い青色、エッサウィラのステージに見たベルベットのカーテンのように海と空の境を曖昧にする。やがて、全てはきっと黒くなり、闇に包まれるのだろう…… 急に独りでいるような不安が湧き上がり、私はピアノの存在を確かめようと慌てて上体を起こした。ピアノは、すぐ側で仰向けになりながら手をかざしていた。その先には、まだ雲に覆い隠されてはいない月があった。西の空は燃えるように紅く染まるが、勢いも虚しく、東から闇夜は迫り来る。
 その時、突然全ての音は硬直から解き放たれ動き出した。穏やかに繰り返す潮騒の上を、ひぐらしの鳴き声が天高く立ち昇った。
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