2004年7月18日 [ 3 ]

文字数 2,462文字

 まだ覚めきらない頭で空港内の案内表示に従いながら、気怠い足取りで入国審査の列の最後尾に遅れ到着して見たのは、制服を着た屈強な男女に両脇を固められて連れ去られる、あのターバンのおじいさんだった。静まり返った広いホールにおじいさんの喚き散らす聞き慣れない言語が一瞬響き渡るも、またすぐにあちこちで列に並ぶ集団のお喋りの続きが始まる。この場に居るあらゆる国籍の人々にとって自身の入国審査が一番の関心事であり、私もそうであるのは確かなのだが、おじいさんが連れ去られた理由への興味と少しの不安を抱いていたのも事実だった。まさかとは思うが、厄介事がこちらへ降りかかってこないようにと願いながらも、自身の旅の目的を思い返すと入国をそれほど期待していない気もする。そんなことを考えている間にも並ぶ列は少しずつ前へと進む。この時間によって後ろから押され急かされているような順番待ち、そして、並ぶことによる他人との近い距離感が苦手だったが、他のことに気を取られていたせいか長いようで案外短くも感じる。足下のふかふかしたカーペットは地に足が着かないようで、法律上どこの国にも属していない税金もない曖昧なこの奇妙なエリアは、現代社会において、あらゆる事柄から一番遠い場所なのかもしれない。むしろ自分自身に一番近いのかも…… そんなことを考えていると、すぐに私の順番がやって来た。
「――次の人!」
 白線の引かれた待機列の先頭から足を踏み出す。ここまで来て後戻りなんて出来ないのに、こんな瞬間にも人生の進む道が決まっていくのかもしれない。
 印象良く軽い挨拶をし、パスポートや必要書類をひとまとめにして入国審査官に手渡すと、私は黙って手続きが行われるその手元を見つめていた。
「君か…… 機内で君の横の座席に座っていた男だが、何か不審な点はなかったか?」
 何の目的でこの国へ来たとか、いつまで滞在するとか、どこの街へ行くとか、そんな質問をされるとばかり思っていたのに、開口一番、審査官の口から出てきたのは、全く私に関することではなかったので戸惑った。
「何か彼に怪しいところはなかったか、って君に聞いているんだが?」
 すぐに答えない私にイライラしたのだろうが、私はそんな審査官へ対する嫌悪感が湧き上がり、何も知らないとだけ伝えた。そして、信じられないが、その他に尋ねられることは全く何も無く、豪快にパスポートへスタンプが押されると、私の入国はあっけなく許可されたのだった。

 信用されているのか、それとも些細な存在だと思われたのか、そんなことを考えたりもしたが、私のことよりもあのおじいさんのことが気になった。心配になったわけではない。あの人の人生を左右する岐路を見たからだ。あの強制的に連れていかれる物々しい状況で無事なんてことはなさそうで、この後、何らかしらの悪い展開…… それがおじいさんにとってか、もしくは国家にとってかは分からないが、何かしらの判断が下されるのだろう。偶然機内で隣り合った人の人生を何も重要視するわけではないが、普段の生活の中にも気付かず通り過ぎているたくさんの事象や数奇な運命が紛れ込んでいることを改めて強く思わされる。ただ、それに気付かないだけか、その時の私には関係がないだけで、たくさんの知らないことが過ぎ去ってゆく…… そんなことを考えながら歩いていた私が辿り着いたのは、預けた荷物が回るターンテーブルの賑やかな人だかりだった。

 急ぐことが何もない私は群衆を離れたところから眺めていた。次々と流れてきては拾い上げられていく大きな荷物、そして、この場から立ち去る人々。どこか私とは違う人生を歩む人達のようにそれらが眼に映る。聞こえてくる楽しそうな笑い声や意気揚々とした足取り、私には無いそれらがまるで嘘か夢のようで、興味の湧かない類の幸せな映画のワンシーンを観ている気がしてくる。
 徐々に人気の無くなっていくターンテーブル。そろそろ現実に戻らなければと人々のまばらになった隅の方へ移動し、黒いゴムの暖簾が掛けられた荷物が再び吸い込まれていく口の近くに陣取り、この一定のリズムを奏で回り続ける大きな機械の音を聴きながら自分の荷物がやって来るのを待つことにした。

 やがて人々はいなくなり、独りになってしばらくするとターンテーブルの機械も停止し、ついに私の荷物が現れることはなかった。暖簾を押し退け口の中から現れた作業員が残っていたステッカーのベタベタと貼られた古ぼけたスーツケースを一つターンテーブルから下ろし床の上へ置いたが、それは私のものではなかった。その作業員に私の荷物のことを尋ねると探してみると言い残し、再び口の中へと消えていく。
 荷物が出てくるのを待っているだけのはずなのに、なぜこんなところで、こんなことをしているのだろうという疑問と、諦めに似た虚しさが浮かび上がる。ターンテーブルの縁に腰を下ろし、大きなスーツケースを転がしながら早足で通り過ぎる別の便の人々を眺めていると、いたずらに時間だけが過ぎていった。
 何十分待っても、さっきの作業員が再び現れることはなかった。私を怪しく思ったのか、ちょうどこちらへ近づき声を掛けてきた保安員に事の顛末を説明し、改めて取り次いでもらうことになる。益々虚しさばかりが増して、ついていない自分に嫌気が差す。

 しばらくして、さっきの保安員と一緒に現れたのは、私が話し掛けたのとは別の作業員で、結局、ここにはもう私の乗ってきた便の荷物は無いと言われた。あれを除いて、と作業員が付け加えた指差す方を見ると、さっき床に置かれた古ぼけたスーツケースがまだそこにあった。たくさんのステッカーが貼られたスーツケース。色取り取りのデザイン、国や街の文字、その愉快な見た目が主の不在を一層不憫に思わせる。保安員と作業員の話しを横で聞いていると、おそらくあのおじいさんのものということだった。
 どうやら他人のことを気に掛けている場合ではなく、厄介事を抱えているのは、あのおじいさんだけではなかった。
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