2004年8月3日 [ 1 ]

文字数 2,232文字

 雨が降っているのかと目覚めたが、音も無く、夢の中のことだったと知る。窓の外には少し早い朝がサンフランシスコの街を彩っていた。夢を思い出そうとしてみても遠い昔のようで手は届かない。日に日に夢から離れていっているような気がして不安になり、そして、無情にもしっかりと現実は今日も始まる。
 朝の準備を済まし、予定もとくになかったが、外へ散歩ついでに煙草を買いにいくことにした。昨日と同じような一日を、私はもうトレースしたくなかった。

 ロビーへ下りてくると見知らぬ男が独り立っていて、傍らには大きなバッグが転がっていた。こんな朝早くにホテルの客が来たのかと一瞬考えてみたが、そもそも旅行者を泊める為の部屋は私達が占拠している。あのフレッドがこんな時間に起きるはずもなく、そこで、断ることを代わりに告げるぐらいはした方がよいだろうと私は判断した。
「あの…… おはようございます」
「ああ、おはよう」
「ええと、このホテルは今、満室で、泊まることが出来ないの。他を当たった方がイイかも、とは言っても、こんな時間に泊めてくれるところなんてないよね……」
「あんた、ここのスタッフかい? それなら、心配無用だ。俺は、今から帰るところだから。昨晩は、この上の階の友達の部屋で飲んでてね。あっ、そうだ、これを捨てるところはないかな?」
 そう言うと男は足下のバッグを開き、中からビール瓶を一本取り出すと、私に振って見せた。
「私はスタッフじゃないけど…… そうね、カウンターの上にでも置いておけば、きっと片付けてくれるわよ」
 笑顔で頷いた男はその場に屈むとバッグへ手を入れ、中から次々と出てくるビール瓶を腕いっぱいに抱えカウンターの上へと並べ始めた。一本ぐらいならと思っていたが、予想外の結果に少し呆れつつ、でも、ここの居住者の友達ならフレッドも許してくれるだろうと私は黙って見守っていた。
「ありがとう、これでバッグも軽くなったよ。ところで、あんた日本人か?」
「ええ、私は日本人よ」
「そうか! 日本に俺のお気に入りのミュージシャン、バンドが居るんだ」
「それは素敵なことだけど、でも私は日本の音楽とかバンドをほとんど知らないの」
「そりゃ残念だ、音楽に興味が無ければ仕方ないな。よし、バッグも軽くなったことだし、俺は愛しの我が家へ帰るとするよ!」
「どこにあなたは住んでるの?」
「ボストンさ!」


 音楽に興味がない訳ではなく、ピアノの調律をしているぐらいだから音楽は好きだけど、知っていることや範囲が異常に狭いのは今さらながらもったいない気もしてくる。せっかくアメリカに居るのだから、少しぐらいこちらの音楽に触れてみるのもイイかもしれないと思っている内に、近所のグロッサリーストアに着いた。

 こちらの煙草は高い。いつもなら免税店でカートンを買うのに、今回はそんなことすら忘れていた。それ程、他のことに気が回らなかった訳で、その原因は、きっと今頃サユリのベッドでぐっすりと寝ていることだろう。それで、私はどうするのか。煙草に火を点け、吸い込んだ煙は朝の瑞々しい大気と共に私を満たす。そして、昨日の私を取り戻した気がした。

 クリサリスへと戻り、中へ入ろうと扉に手を掛けた時、静電気が走ったようなショックで私の頭の中にふとしたことが浮かび、その場に立ち竦んだ。一歩、二歩、と後ろへと下がりながら、私は歩道上でクリサリスを見上げる。視界に上手く入りきらないので、車道を渡り、反対側の歩道でまたクリサリスを眺めた。初めてここへ来た時にそうしたように。
 しばらく、私はその全景を見つめながら、記憶の海の深い深い所へ潜るように、なぜ、クリサリスがここにあり、疑問も抱かずに私は過ごしていたのだろうと、さっき頭に浮かんだことを考えていた。


 あの日、偶然見つかったポストカードが私の下へとやって来て、それ以来、私の鏡台の鏡の隅に貼られ、いつしかクリサリスの存在は、私の生活の光景の一部分となっていた。今こうして、ちょっとした好奇心から訪ねたクリサリスは、ずっと私の中にあり続けただけではなく、より鮮明に眼の前に実在していた。私が訪れたかのように感じていたクリサリスは、実はクリサリスの方から歩み寄ってきたのではないかと思う程に、今や有機的な存在にも思えてくる。この不思議な気持ちは一体なんなのだろう…… クリサリスって……


 公衆電話へと走っていった私は受話器を上げると急いで番号を押し、相手が出るのをはやる気持ちを抑えて待った。まだ寝ているだろうから仕方ないが、延々と続くコールを待つ間も祈るような気分だった。
「ホウ、こちらクリサリス…… 朝からどのような御用で?」
「フレッド! ミチヨだけど、クリサリスのことについて聞きたいことがあるの!」
「ホウ、ミチヨか…… んん、なぜ、ミチヨが電話してきているんだ? そして、クリサリスのことを聞きたい、これは夢か?」
「夢じゃないよ、起こしてゴメンね、でも、どうしても早く確かめたいことがあって」
「ホウ、クリサリスのこと、それはホテルだ」
「もちろん、それについても聞かせて、だけど、蛾の『クリサリス \ 蛹』についても教えて欲しいの!」
「ホウ、この電話で?」
「いいえ、クリサリスのすぐ近所に居るから、一分で戻る!」
 受話器を下ろすと、私は走ってクリサリスへ向かった。何の根拠も無いけれど、このタイミングを逃したら、私は永遠に抜け出せない気がした。何から? それは、まだ分からない。
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